2005年12月18日

コーヒー爆弾

『コーヒー爆弾』

こないだ事務局でコーヒーを飲みながら作業してて、
後ろから総務部長のK松さんに「あらきさん!」と声をかけられた瞬間、
飲みかけたコーヒーがダイレクトに気管に入り、
人間コーヒー爆弾と化してしまいました。

コーヒーが気管に入った瞬間はそれでも何とか立ち直ろうとして、
口を閉じたまま「げほっ、げほっ」としてるのですが、
それも時間の問題・・。
私の口といわず鼻といわず穴という穴から「ぶぱっ!」っと噴出したコーヒーで
あたりは悲惨な状況になりました。

これぞまさしくコーヒー爆弾。事務局で誤爆してしまいました。

辛かったのはその後です。もしこれが楽員のラウンジだったら、
皆一斉に「ぎゃははは! 汚ね〜〜〜!」と大ウケして救われるところなんですが、
上品で知性派の事務局の皆さんの反応は全く違います。
一瞬部屋の空気が凍って、皆その惨状を見て見ぬふりをして仕事をしています。
事務局内には「カタカタ・・」とキーを打つ無機質な音と、
時折鳴る電話の音と、あとは小声で打合わせなどする音のみが響いていました。

「・・・なんか言わんかいっ!!ゴルァ」(ノ-_-)ノ^┻━┻ ちゃぶ台返し

う〜〜ん。困った。この状況をどう切り抜けようか・・。

あなたならどうしますか?


P.S. 『菜々子の日常』で”牛乳爆弾”が話題になってましたが、
あの牛乳爆弾とは違うけど、小学生の時、
給食時に牛乳を飲んでいる子を笑わせるのが大流行しました。
これをやられると、たいして面白くもないギャグにも反応してしまい、
それこそ、口と言わず鼻を言わず「ぶばーっ」と牛乳を吹き出したものです。
その日一日は「恐怖の牛乳魔人」などと呼ばれて最悪な目に会います。
だから、牛乳は「いただきます」の合図とともに一気飲み。
これが鉄則でした。  
Posted by arakihitoshi at 15:46Comments(6) │ │雑感 

2005年12月17日

kitaraファーストコンサート

今年度のkitaraファーストコンサートが終わった。
札幌市内の全小学校6年生をkitaraに招待して札響を聴いてもらおうという、
昨年から始まった企画である。

全部で12回のコンサートを6回つづに分けて、
3日間連続で1日2ステージ。11月と12月にそれぞれ行った。
11月は正指揮者の高関さん。
今月は音楽監督の尾高さんが指揮とお話しをした。

今までほとんどの日本のオーケストラがやっていた音楽教室とは
全く違う発想のコンサートである。
今までの音楽教室は、学校の体育館などで、
指揮者も音楽監督などではなく、
若い勉強中の指揮者だったりとかするわけだが、

このファーストコンサートは、
kitaraホールで定期演奏会に劣らないクォリティーの演奏会を聴かせるわけだ。
こういう事を言うと必ず「演奏会に上下を付けるのか?」と
屁理屈を言う人がいるのだが、
定期演奏会と小学校の体育館で弾くトトロが全く同じでは困るのだ。
あたりまえの話しである。
そのあたりまえがこのファーストコンサートでは
かなりの部分であたりまえじゃないところが凄いのだ。

3日間、午前10時という楽隊にとっては早朝から始まる演奏会が続き、
また師走の多忙さで、2回目の演奏会が終わった後も、
室内の演奏会なども入っていて、もはや「体力の限界」である。
しかしながら、励まされるのが、
昨今の小学校6年生の演奏会マナーの良さである。
演奏に集中して、不快な雑音も少なく、
楽器紹介で面白い芸を披露した奏者には笑いと拍手。
強制されている訳でもなくリラックスして聴いているように見える。

無料のコンサートで会場で弁当を拡げてしまう大人よりも
むしろ都会的でスマートに見える。
よほど教育されて来ているのだろうか。そうも見えないのだが。
謎だ・・。
小学6年生たちが座席番号の書いたチケットを手に、
フロア係りに案内され座席に着き開演を待つ・・。
そんなちょっとドキドキ体験が功を奏しているのかもしれない。

話しは変わるが、
昨日は北大で三浦洋さんの授業で札響ワークショップを披露してきた。
大学生向けに新たにプログラムを組まずに、
いつも小学生相手にやっているワークショップを敢えて大学生相手に
やってみた。
こちらとしては、彼らの反応を見たかったのと、最後に意見を聞きたい
というのがあった。

授業の最初にも説明したのだが、
ワークショップという言葉の定義は極めて曖昧。
大辞林には
ワークショップ(新語)
(1)仕事場。作業場。
(2)研究集会。講習会。
(3)舞台芸術などで、組織の枠を超えた参加者の共同による実験的な舞台づくりをいう。
とある・・。
そう、”新語”なのである。
昨今持てはやされているワークショップという言葉も、
実は私も含め皆分かった振りをして使っているが定義すら定まっていない
得体の知れないものなのだ。
日本中でその言葉に内容を当て込んでいる。そんな状態なのである。
札響のワークショップは初めて丸3年、
やっとスタンダードが見えはじめて来た段階だと思う。

「輪になって手を叩いたり、踊ったり、こんな体験は小学生以来で楽しめた」
というある学生の感想が印象的だった。

さて、ファーストコンサートといい、ワークショップといい、
こうした教育プログラムが実を結び、
今の小学生が大人になって定期会員になってくれる頃には、
今の楽員たちは既に定年退職を迎えているだろう。

芸術や文化の活動がひとつの果実を結ぶのは実に気の長い話しである。
2週間前、道が札響の補助金を2年で4000万円削減との報に接したが、
桃栗三年柿八年、文化200年、削減2年。である。
潰すのは簡単だけど育てるのは本当に大変。
今撒いた種が次の世代に実を結ぶまで大切に見守れるよう、
関係各位のご理解を賜りたいところだ。  
Posted by arakihitoshi at 00:26Comments(0) │ │音楽 

2005年12月11日

走る師走

いいかげん更新しないと見捨てられそうである。

12月は忙しい。なかなか更新できない。
私だけではないだろう。社会人の12月というのは死ぬほど忙しいものだ。

第九を始めオーケストラの演奏会も多い。
小アンサンブルの業務もたて続け。
ワークショップのファシリテーターを命じられメニューを考える。
よせばいいのにポルトの室内楽シリーズでドビュッシーとボロディンの
弦楽四重奏をやる事にしたので、その練習も沢山ある。難曲なのだ。

札響労組の定期大会もあるので、議案書も作くらにゃならん。
こんな時に限って室内楽の内職は入る。
講演会の内職も入る。
暇な月に入ってくれりゃ〜いいのによ〜。
でも貧乏性だからギャラの入る仕事は絶対断れない。
「12月って空いてる日ありますか?」
と訊かれると
「はいはい。もちろんでございます。もうバッチリです。何日ですか?」
って反射的に答えちゃうのである。

んで、雪が降る。
雪かきも入る。
子供が風邪をひく。保育園休ませて病院連れていく。
自分まで風邪ひかないだろうな・・。手洗いとうがいはしっかりやろう。

年末調整もある。
あ!、そういえば車検も今月だった!。

友人の結婚式まで入る。
この忙しいのに結婚してんじゃねーー! (ノ-_-)ノ^┻━┻ ちゃぶ台返し

ああ、全てを放棄して南の島に行きたい。
南の島が全てを解決してくれそうな気がする。
いや。解決してくれるに違いない。
椰子の木陰で、美しく気立てのいい現地の娘なんかと、
海に沈む夕陽を飽かず眺めちゃったりするのだ。
メルヒェンだね〜〜〜。
でもノートパソコンくらいは持っていこうかな・・。
南の島ってインターネットは繋がるだろうか。  
Posted by arakihitoshi at 23:31Comments(0) │ │雑感 

2005年11月27日

バカ暖房

この数日、道東に演奏旅行に行っていた。
ある体育館での演奏で会場がとても暑かった。
その体育館はスチーム式暖房で、
体育館の天井にびっしりと暖房パネルが吊るされている。
リハーサル中は暖房を入れてから時間が経っていないためか、
天井のパネルからスチーム暖房独特の”パチンッ!、ピキンッ!”という音が、
体育館に響き渡っていた。

さて、演奏会本番。
予想していた通り効きすぎた暖房で会場はゲロ暑・・・。
天井の熱源は強烈である。頭が熱い。帽子が欲しいくらいだ。外は雪だというのに。
お客さんの半分以上は子供たち。みんなぐったり。
Tシャツになってもまだ暑いらしく、パンフレットで顔をあおいだりしている。
可哀想だが、そんな中タキシードで演奏しているこっちはもっと可哀想だ。
急に暖房を消すと例の”パチンッ!、ピキンッ!”が鳴りだすのは分かるが、
この天井の熱パネル何とかならんか! 魚焼き器じゃないんだぞ!!

こういう微調整の効かないバカ暖房は北海道には沢山ある。
身近なところでは芸術の森にもある。
札響の練習場にもなっている施設なのだが、
練習場の気温は恐ろしいことに、冬は28度に達し、夏は21度を下まわる。
冬はTシャツでも汗だく、夏はカーデガンは羽織っても寒いありさまである。

カーデガンと言えば・・、
最近、カーデガンの事をカーディガンと言う人が多い。
店でもカーディガンとして売っている。
この「ディ」という発音に違和感を感じるのは私だけだろうか・・・。
「カーディガンなんでないかい?」って訛ってるみたいでないかい?、である。

最近急に呼び方が変わった衣服は他にもある。
例えば背広がスーツに変わった。
「太陽にほえろ」で山さんやゴリさんが着ていたのは背広だったが、
課長島耕作が着ているのはスーツだ。
私は大人になったらスーツでなく背広を着たかった・・。

ジャンバーがジャンパーになったり、
ヤッケがブルゾンになったり色々あるのだが、
もっとも許せないのがズボンがパンツに変わったことである。

「パンツ」はあくまで「パンツ」であって、グンゼのパンツなどであって、
「ズボン」ではないと思うのだが、いかがなものか・・。

「お客様、パンツはこちらでございます」
「パンツやのうてズボンが欲しいんやけどな」
「ですから、パンツはこちらに・・」
「ねえちゃん、冗談言うたらあかんで、パンツ言うたらパンツやないけ、
 何か? この店は客にパンツ一丁で街歩るけ言うんか? あ”〜〜?」

「パンツの裾はシングルにしますか? ダブルにしますか?」
「パンツにシングルもダブルもあるかーーーー!!」
(ノ-_-)ノ^┻━┻ ちゃぶ台返し
と、思わず関西弁で絡みそうになるくらい違和感を感じる。

話しが外れた。
冷暖房の話しである。
この芸森のバカ空調は広く世間に訴えたい。クドヴィッチたちが必死で
休憩時間などにドアを全開にしたりしても、熱くなったり寒くなったり最悪なのだ。
しかも、暑くなりすぎたと言って送風にすると、
ファーストヴァイオリンとヴィオラの楽譜がふっ飛ぶ程の強風が吹く。
こんな空調あるかーーーー!
(ノ-_-)ノ^┻━┻ ちゃぶ台返し

体育館の安物のスチーム暖房じゃないのだから改善を望みたいところだ。
実際、効きすぎの空調ほど困ったものはない。
みんなイライラして作業効率は落ちる。集中力も落ちる。
健康にも悪いし、エネルギーの無駄だ。
芸森は札幌市の施設だから税金の無駄でもある。
百害あって一利無しとはまさにこのことだ。

更に付け加えるなら、
2階に数部屋ある室内楽なんかの練習をする小練習室の空調も酷い。
夏に暑いからといってうっかり冷房をつけると、
あっという間に室内の湿度が70%を越え、楽器の指板は濡れてビショビショ。
使い物にならない。

せっかくの立派な施設も空調がこれでは台なしである。
何年も苦情を言いつづけても、やれ微調整が効かないだの故障中だの埒が明かない。
数年前に業者が入って空調を新しくしたはずなのだが目に見える改善は無かった。
暖簾に腕押しの状況に根負けしそうになるが、
この施設を使うのは札響だけではない。
借料を取っている以上、施設には常識的な温度や湿度を提供する義務が
あると思うのだ。まして公共の施設なんだから。

はたしてこれでいいのでしょうか?。いいわけないのです。
だから私は叫ぶのだ。
みんなー、聞いてくれーーー!と。  
Posted by arakihitoshi at 00:50Comments(3) │ │雑感 

2005年11月16日

4丁目界隈

ブログというのは弾みが付くと毎日でも書けそうな気がするが、
一旦滞ると面倒になるものだ。
これはブログに限らないかもしれない。
考えてみれば、腹筋もウォーキングも最近全くやらなくなってしまった・・。
せめてブログは続けよう。ここがふんばりどころなのだ。
こういう時はえてして面白い文章というのは浮かばないものだが、
とにかく書くのだ。

さて、BBSでも話題になったが、
三越の隣の丸善が4丁目界隈から撤退した。
丸善にはシャッターが降りて、移転を告げるはり紙がしてあった。
丸井にも用事があったので行った。
丸井の横には紀伊国屋がある・・。いや、あった。
行き慣れた思い出深いあの店舗は既に無く閑散としてた。
去年、狸小路の旭屋書店が撤退した跡を見た。
旭屋があったフロアはガランとしたまま放置され、
テナントで入っていた文房具屋だけがフロアの隅で不自然に営業していた。
紀伊国屋や旭屋の店舗は、風景画を書けるほど今でも頭の中に鮮明に蘇る。
パルコの7階にあった富貴堂も姿を消した。
十代の頃から通い慣れた本屋の撤退を寂しく思うのは私だけではないはず。

日劇や狸小路にあったほとんどの映画館も移転、もしくは撤退し、
本屋、映画館、電器店などは4丁目界隈からすっかり姿を消した。
パルス21がマルサから撤退し、レコード店の行方も気がかりだ。
そして何としたことか、かさはら楽器まで無くなってしまった。
このままでは4丁目界隈から文化の香りが消えうせるではないか。

パルコができる前はあの場所にはたしか二階建ての富貴堂があった。
その隣、今のマルサがある場所には帽子専門店があった。
70年代は日曜日には駅前通りや一条通りは歩行者天国となり、
子供心に世界の中心にいるような賑わいを感じたものだ。
少年時代に、駅前通りの歩行者天国でオーケストラが演奏するのに遭遇した
記憶がうっすらとある。
考えてみれば歩行者天国という言葉も今は死語だ。

先日、家の近くの国道沿いに大きな空き地が出現した。
何の跡地なのか、空き地になる前は何が建っていたのか、
毎日の様に通る道なのに、どうしても思い出せない。
家人の記憶などと照らしあわせて、
どうやら古るくて大きな廃業した銭湯があったようだ。
言われてみればそんな気がしなくもない。
こうして街は変わっていくのか。

4丁目にパルコができる前はあの場所に富貴堂があったと書いたが、
さらにその前には回明堂という眼科医院があった。
私の曽祖父にあたる人の医院だ。

札響の創設者の荒谷正雄先生が隣家に住んでいたそうだ。
屋根の上で熱心にヴァイオリンを練習する少年時代の荒谷先生の話しを
105才で亡くなった曽祖母から何度か聞いたことがある。
戦争の陰はあるものの、日常はのどかでいい時代だったのかもしれない。

さすがにその頃の4丁目界隈を知る人は今は誰も存在しない。
こうして街は変わっていくのだろう。  
Posted by arakihitoshi at 01:16Comments(2) │ │雑感 

2005年11月04日

ほっちゃれ

昨日は函館から車で1時間ほどの場所にある知内町で、
ほくでんファミリーの演奏会であった。
尾高さんの指揮で知内単発という豪気な仕事である。しかも入場無料。

知内は大きなホールが無いので体育館での演奏であった。
体育館の裏には知内川というそこそこ大きな川が流れている。
鮭の遡上の真っ盛りであった。
川のあちこちで遡上する鮭が跳ね、川面にしぶきと波紋が広がる。
川縁や川底には産卵を終えた鮭の死骸が転がっている。
産卵を終えた鮭は”ほっちゃれ”と呼ばれるが、
味も悪く食べられることもなく放っておかれるとか、
そんな理由からきた呼び名なのだろう。
ほっちゃりの死骸は文字どおり放置され、白い腹を空に向けて腐り果てている。
海猫にさえ見向きもされない。果無くも無残な姿である。

北海道がアイヌ・モシリと呼ばれた頃は、
今の季節、遡上する鮭で川という川が銀色に染まったというから、
その結果おびただしいほっちゃれの死骸が、
食物連鎖と人間の嗅覚に与えた影響は、
それはそれは計り知れないものだったと想像できる。

さて、鮭が跳ね上がる決定的な瞬間をカメラに納めようと粘ってみたが、
人間が近づくと鮭は警戒してしまうのか、なかなか跳ねてくれない。
鷹とか熊なんかに捕まらないように、
川岸の動物から遠ざかる司令が、きっと遺伝子に刷り込まれているのだろう。
川の向こう側では沢山の鮭が賑やかに跳ねている。
川面の反射もあるのでPLフィルターを持っていなかったのも悔やまれる。

鮭の寿命は4年くらいだったと記憶しているが、
足元に転がる死んだほっちゃれの脳にも4年分の記憶があったのだろう。
鮭の記憶に思いを馳せ、深まる秋に長い冬の訪れを・・・

いかんいかん!(`口´;)
たかが鮭の死骸ではないか。危なく分別臭いことを言うところだった!


下の写真は”ほっちゃれ”の死骸とかろうじて跳ねてくれた鮭。
ほっちゃれ





※11月6日追記
”ほっちゃり”と”ほっちゃれ”の2種類の呼び方があるという事が分かり、
検討の結果、”ほっちゃれ”に統一しました。  
Posted by arakihitoshi at 23:39Comments(3) │ │雑感 

2005年10月30日

オッコ・カム

先週からオッコ・カム週間であった。
小樽でのほくでんファミリーコンサート、そして札幌での定期演奏会
と続けてカムの指揮でシベリウスを演奏した。

小樽のほくでんではシベリウスの2番交響曲、カレリア、
フィンランディア、アンダンテ・フェスティーボ。
定期は同じくシベリウスのポヒョラの娘、交響曲第7番と4番。

ほくでんファミリーの練習日は1日、本番1回、定期は3日間で本番は2回。
計7日間、カムの指揮でシベリウスをぎっしりやった事になる。
今週の札響はまさにカムとシベリウス漬けであった。
カム制作のシベリウス味の漬け物か佃煮が出来そうな勢いであった。

今を去ること四半世紀前、中学生だった頃にシベリウスのレコードを
始めて買ったのがオッコ・カム指揮、ベルリン・フィルの
シベリウス2番交響曲だった。
私のシベリウスとの出会いもそのレコードによってもたらされた。
そのレコードはそれこそ擦り切れるくらい聴きこんだ。
フィンランド国立歌劇場管のコンマスを辞し、カラヤンコンクールで優勝し、
指揮者としてデビューを果たしたあの頃カムは若干25才だったのだ。

それから私はすっかりシベリウスのオーケストラ作品にハマって、
レコードを買い集めた。
色彩感豊かなカラヤンもいい。
精緻を極めたベルグルンドも捨てがたい。
ヘビー級でロマン溢れるバルビローリにも痺れる。
世に名高いシベリウス振りは数あれど、
やはり刷り込み効果なのだろうか、最初に聞いたカムの、素朴な中にも
内なる凄味を感じる演奏には魅了され続けた。

そんな訳で、今回の定期はラインナップが分かった時からとても楽しみに
していた。オーケストラ奏者という仕事を選んでこういう役得に
与る時にこそを醍醐味を感じる。

長年温められてきた私の中のカム像は、『痩せ型で長身、寡黙で少し神経質、
髭を貯えた彫りの深い顔だちから哲学者風のキャラ』を想像していた。
だが実際に札響に姿を現したカムは、『太鼓腹で恰幅よく、終止にこやかで
オヤジギャグを飛ばしまくり、陽気で気さくなペンションのオヤジ風キャラ』
であった。

・・・、まあ、いい。多少イメージとは違ったが、本物のオッコ・カムには
違いあるまい。

オッコ・カムは子育てのために仕事をあまり入れないとか、趣味のサーフィン
などをするために仕事をあまり入れないとか、あまりオケとの練習をしないという
前評判を聞いていたので、今回はひょっとして適当に流されちゃうの?という
心配も無きにしも非ずだったが、とんでもない話しで、それはそれは濃密で
長い練習が毎日展開された。
決められた練習時間の最後の1分まで残さず毎日キッチリ練習があり、
正直相当疲れた。皆が疲れるほどカムは元気を増し、ギャグを連発していた。

オッコ・カムが来るとのことで、張り切って本番の2週間位前から譜面を持ち帰り、
家でCDと共演までして一人さらいまくった揚げ句、一連の練習で
多少飽きが来て、肝心の本番で僅かに意識が遠ざかる瞬間がある程だった(笑)。
これではまるで遠足を楽しみにするあまり眠れない小学生と一緒ではないか!
「カムの指揮で、しかも本番で睡魔に襲われるなーーー!」と、
一人ボケ&ツッコミを入れたくなるありさまであった。

疲れた原因はそれだけではなかった。
カムは、それはそれは溢れでる音楽は素晴らしく、楽曲への理解は他の追随を
許さない揺るぎないもので説得力に満ちあふれ、人間的な魅力も相当な
もので誰からも好かれるオーラをまとっていた・・・。
しかし、指揮が分かりにくい・・・。
い、今って何拍目?? みたない瞬間がかなり頻繁にある。

シベリウスの4番や7番はけしてメジャーな曲ではなく、
また、シベリウスは耳ざわりが良いので聴いている限りあまり感じない
のだが、実は難解な部分も多い歴とした20世紀の現代音楽。
今回はやっとカムの指揮に慣れた頃に終わってしまったが、
是非とも度々客演して欲しい指揮者だ。
回を重ねるごとにシベリウスの神髄を垣間見る事も増えるのではないだろうか。
元々、札響の主要レパートリーにシベリウスを加えるべきと
私は激しく思っているところでもある。

そして今回は、中学生の時に買った件のレコードを持って
カムの楽屋を訪れサインをねだった。
共演のソリストや指揮者にサインを求める事はほとんどしないのだが、
今回は特別である。
「中学生の時に買ったあなたのレコードでシベリウスを知り、
今回の演奏会を楽しみにしていた」と言うと、とても喜んでレコードに
サインしてくれた。

今回の演奏会で札響を気に入ってくれていたらいいのだが・・。

下の画像はカムにサインしてもらったレコード。

カム  
Posted by arakihitoshi at 22:57Comments(6) │ │音楽 

2005年10月20日

メシ伴の作法

映画「タイタニック」にこんなシーンがあった。

沈没寸前のタイタニックの甲板にて
右往左往する乗客たち
乗組員に甲板での演奏を促される楽士3人
楽士3(チェロ)「ここで弾くのか?」
楽士2(ヴィオラ)「誰も聴いてないぞ」
楽士1(ヴァイオリン)「いいさ、どうせいつも誰も聴いてない。
それよりも、君たちと演奏できて幸せだった。幸運にも助かったら
また一緒に演奏しよう」

この楽士たちは普段は客船の食堂でBGMや舞踏の伴奏などを演奏していた。
だから「どうせいつも誰も聴いてない」という台詞があったのだ。
私には何気ない台詞に思えたのだが、映画館でこの映画を見た時、
驚いた事にこの台詞の箇所で映画館の観客から笑いが起った。

最初、その笑いの意味が分からなかった。いや、今でもはっきりとは分からない。
楽士の卑屈な台詞が失笑を買ったのか、
誰も聴いてないのに演奏するという状況に可笑しみを感じたのか、
どちらにせよ、演奏を生業としている私の感覚と一般観客のそれとの間には、
大きな溝があったようだ。

そして最近こんな事があった。

ある日の夕方、私の自宅に電話があった。
電話の主「もしもし、荒木さんのお宅ですか?、わたくし○○市役所の某と
申しますが、演奏の依頼でお電話しました」

こうした依頼電話やメールの場合、演奏時間、場所、観客の対象などを
お聞きして、演奏会の内容を決める。そしてスケジュールや出演料を調整し、
折り合いが付いた後に正式に演奏会をお引き受けする手順となる。
確認する内容には、その演奏はBGMか否か、というものも含まれる。
これは演奏会を引き受ける上で実は重要な要素だ。

例えばホテルの宴会場でパーティーの歓談中、
会場はざわめき、食器を運ぶ音や高笑いなどが聞える中で、
ベートーヴェンのチェロソナタを熱演したところで意味はないし、
場違いもはなはだしい。
それに、そんな状況でソナタ熱演は精神的にも不可能だ。
パーティーのBGMは豪華さを演出するための言わば飾り物で、
そういう場での演奏は演奏家にとってある意味屈辱的な面もあり、
はっきり言って”金のため”あるいは”顧客サービス”なのである。
BGMの仕事は一切受けないという人もいるが、私はこれも演奏家の
仕事の一つと割り切って条件さえ合えば受ける事にしている。
その代わり、ギャラはしっかりいただく。
当たり障りのないやり慣れたポピュラーな名曲を流し、
プロとして出演料分の仕事はしっかりとやらせていただくが、それ以上はしない。
BGMの仕事が、飯の伴奏、”メシ伴”と呼ばれ、
業界で一段低く扱われる由縁である。

逆に、生の演奏を是非聴きたいとか、
子供たちなどに本物の演奏に触れる機会を与えたいとか、
本格的な室内楽の演奏会を催したいとか、
取り分け私の演奏やサロンコンサートなどをご所望の向きには、
例え出演料が安くてもお引き受けして目一杯の仕事をしたいものだ。
それがプロフェッショナルの理と理解している。
もしゴルゴ13に同じことを訊いても、
もしブラック・ジャックに同じことを訊いても、
彼らはそう答えるのではないだろうか・・。

ある日の電話に話しは戻るが、
”メシ伴”ではなく”演奏会”とのお話しでお引き受けした仕事だったが、
演奏会が近くなり、更に具体的な打合わせの段階で、
立食パーティーでの演奏だということが分かった。
こういうのが一番困るのだ。
私はピアニストには既に”演奏会”との事で伴奏を依頼し、
プログラムも”演奏会”に相応しいものを準備していた。
何より演奏会とメシ伴ではこちらの心構えが違うのだ。
まあ当日行ってみたらBGMだった、という事もあるから、
それよりはマシだったが・・・・。

こんな時私は迷うのだ。
「ゴルァ!!(ノ-_-)ノ^┻━┻ ちゃぶ台返し」と怒って”偉い演奏家様”を
演出した方が、かえってありがたがられてしまう場合も世間ではあるようだが、
私には性格的にも到底そんな真似は出来ないし、
せいぜい嫌味を言うくらいが関の山で、それすら次の仕事を失う覚悟が
必要なのだ。

もしも私が、
『3才の頃より父の手ほどきを受け、
5才でMHKジュニアコンクールで優勝。
14才で毎目新聞主催目本音楽コンクールを最年少で優勝。
帝都高速度交通営団芸術大学院を首席で卒業後渡欧。
おフランス国立キボンヌ音楽大学を首席で卒業。
同大学にてマジレススマソヴィッチに師事。
バリ、ベルリソなど欧州主要都市でリサイタルを開催し各紙で絶賛を浴びる。
帰国後、MHK交響楽団、売読日本交響楽団などと共演。
現在、札幌交響楽団スーパーエグゼクティブ金銀パール首席チェロ奏者。』
という経歴の持ち主だったら、あるいは(ノ-_-)ノ^┻━┻ ちゃぶ台返し
も可能なのだろうか・・。いや、そもそもメシ伴は頼まれないのか?

この辺が、定価の無い、いわば”時価”の仕事の難しいところだ。  
Posted by arakihitoshi at 01:27Comments(2) │ │音楽 

2005年10月13日

スターウォーズ V.S. 海洋堂

今日は昼間の予定がキャンセルになり思いがけず時間が出来た。
これ幸いと一人で北海道近代美術館で開催中の「アートオブスターウォーズ展」と、
札幌芸術の森美術館で開催中の「造形集団 海洋堂 の軌跡」を梯子した。

BBSでも話題になっているが、由緒正しき美術館でのサブカル展には
当然ながら賛否両論あるようだ。
しかしながら独立行政法人国立博物館法というのが3〜4年前に施行されて、
自治体の持っている美術館なんかも確かそういう経営の成り立ちに
なったような気が・・。いや、記憶違いか・・。
こんな曖昧な記憶で書いていいのか・・・。いいや。どうせ個人のブログだ。
いちいち調べてなんかいられないのである。
でまあ、少なくとも世の中の流れというヤツはそういう方向に向かっている。
是非は別として、要するに自分の金は自分で稼がないと立ち行かない
仕組みになってきたということであろう。

そんな流れの中、キンビも遊びの空間とか実験工房みたいな芸術とは
かなり遠いと思われる催しをたまにしている。
考えてみれば、今さらスターウォーズで驚くことはないのである。

さて、スターウォーズ展であるが、入り口から入ると最初にガラスケースに
入ったスターデストロイヤーの模型があった。
順路はエピソード4から始まり上映順に並んでいる。
封切り当時のポスターなどのノベルティー物があったりして、
次にR2-D2があった。R2-D2の意外と粗末な作りに感心。
わたしは予めネットなどで、実際の撮影に使われたR2-D2やダースベーダー誕生の
手術台などがあると聞いていたので、なんとなく「ああ、これが多分
撮影で使われたの?・・かな?」と思いながら見たのだが、
解説が全く書かれていないのはいかがなものでしょうか? ホントの美術品
じゃないんだから。

コーナーごとにテレビモニターが置いてあって、メイキングDVDの
展示品に関る箇所が繰り返し流れているが、それから推察するに、
たぶんチューバッカは本物?、このセットも本物??、よくわからん・・。
メイキングDVDも話しの途中でいきなり切れて、青い画面に
「キャプチャー6」とか出て繰り返すんじゃなくて、動画ソフトとかで
綺麗に編集しませんか? ひょとして著作権の問題とかで編集できないのかな?

展示品も貴重だし全体的に悪くはないのだが、
解説が皆無なので狐につままれた気がしないでもなかった。
撮影に使われたならどのエピソードか、実際に展示されてる物が
撮影されたのか?、CGの原形になったのか? 
人形には人が入るのか?別の方法で動かしたのか?
そういった解説がないので有り難みも半信半疑であった。
展示方法にイマイチ工夫が感じられず、借りてきた物をただ並べました感は
払拭できなかった。
主催はキンビじゃないからキンビに文句を言っても仕方ないのだろうが。
見終った後に心からコーパーコーパーしたかったな。

次ぎは芸術の森美術館の海洋堂展に向かった。
スターウォーズ展には正直少しがっかりしたので、あまり期待しない
事にして行ったのだが、こちらは面白かった。
ちなみにこちらの展示館は芸森の自主事業である。
海洋堂の歴史とサブカルの歴史と日本の出来事を年表にしたパネルが
良かった。
気が遠くなる数のフィギュアがあったが、造形師別や年代ごとに分類され
ていて、海洋堂の全貌がよく分かった。
等身大綾波レイがいる部屋で上映される大阪SFコンベションの映像も
サブカルっぽくて良かった。
電車男のオープニングのパロディーの方が今では有名な、
DAICON4オープニングアニメがエンドレスでかかって雰囲気を盛り上げていた。
昔のプラモデル屋の情景なんかも懐かしかった。
食玩にかなりスポットが当たっていた気がしたが、わたしの好きな
ヒーロー物のフィギュアも沢山あって嬉しかった。中でもキカイダー
とハカイダーの戦闘シーンのフィギュアが素晴らしかった。
キカイダーはあのちょっと寄り目っぽいところが好きだ。

何かと注目を集める美少女フィギュアは意外と少なく、エロなフィギュア
は置いてなかった。この辺で品位を保ったと言えるだろう。
美少女フィギュアもゆっくり見たかったが、芸術の森では激しく顔バレ
しており、「札響の人がエッチな人形じーっと見てたわよ・・ひそひそ」
となったら恥ずかしいので、さりげなく見る程度に留めた。

そんな訳で、『キンビ・スタウオ V.S. 芸森・海洋堂』は
わたしの中では芸森に激しく軍配が上がりました。

芸森のグッズ販売コーナー(量は少なかったですが)で、
黒澤明〜蘇る巨匠の現場〜用心棒/椿三十郎編という食玩を買いました。
BBSでHikoさんが言ってたのはこれか・・。と思いながら
中を開けると、寝そべっている桑畑三十郎が当りました。
「桑畑・・、桑畑三十郎!。・・いや、もうすぐ四十郎だな」か。
いつのまにか年齢抜かしちゃったよ!


海洋堂  
Posted by arakihitoshi at 00:08Comments(0) │ │雑感 

2005年10月11日

韓激流

楽しかった韓国公演も終わり、
代わりに終わりなき日常が戻ってきたわけであるが、
海外公演はオーケストラにとって、終わりなき日常業務をしのぐための、
一つの強烈なエポックとして存在し、
モチベーションを維持、高上させるカンフル剤だと、
そんな事をひとりブツブツ考えてるのであった。

さて、韓国の後は福岡と東京で公演しながら札幌に帰ってきた。
休みが一日あった後、士別と滝川のコンサートの練習があり、
昨日は滝川、一昨日は士別であった。
それにしても、いくら海外公演がオケのカンフル剤とはいえ、
定期から続いたあの演奏旅行の後の休みがたった一日とは、
札響も人使いが荒い(笑)。ま、忙しいのはありがたい事ではあるが。

帰国後の札響ではハングル物が大流行している。
連絡事項の掲示板には札響の公演を伝えるハングル語の新聞が掲示され、
韓国の飴やお菓子が練習場に常備され、
クドヴィッチのコーヒーコーナーのメニューに高麗人参茶が追加され、
公演先のお茶コーナーにはハングル語で名前が書かれた紙コップが並ぶ。
ハングル文字は一文字でも存在すると、
その場の雰囲気を圧倒的に”韓”の世界に引き込んでしまう
強烈な個性の文字であると改めて認識。

ハングルで名前の書かれた紙コップが並ぶ舞台裏↓
ハングル文字






前にもちらりと書いた事があったが、
東京にいた頃、2年間練馬区石神井のワンルームマンションに住んだことがあった。
20代後半の頃である。
引っ越してしばらくして、そのマンションの特異性に気が付いた。
なんと、日本人はわたし一人だったのだ。

1フロアーに4部屋づつの4階建マンションで、わたしは4階に住んでいた。
1階と2階は主に中国人エリア。
3階と4階は主に韓国人エリア。
彼らのほとんどは留学生でわたしと同世代だった。
夕方になると皆自炊するので、マンション全体が”アジア”っぽい臭いに包まれた。

バブル絶頂の当時、首都圏のマンションは住む人を選んだ。
「ペット可、ピアノ可、外国人可」というマンションはそうはなかったのだ。
それでそのマンションには韓国人と中国人とチェロ奏者一人が集まったのだろう。

隣の部屋のキム君とは同じ昭和40年生まれでずいぶん親しくなった。
向こうも日本人の友達が欲しかったのだと思う。
お互いの部屋を行き来するうちに他の韓国人たちとも親しくなった。

獨協大学にいた頃、韓国語を少しだけ勉強して、
ハングルの読み書きと挨拶くらいは覚えていた。
当時の日本では今と違ってハングル語は超カルト言語。
キム君たちはわたしがハングル文字をたどたどしくも読み書きするのを見て、
驚きを通り越して少し無気味がっていた。

仲間意識の強い韓国留学生たちは毎夜誰かの部屋に集い、
時々、晩メシにわたしを招待してくれたこともあった。
わたしが加わった時の公用語はもちろん日本語だったが、
韓国語も少し覚えた。
少なくとも”飲み会”で不自由しないスラングな語学力が当時はついていたと思う。
わたしの主要カラオケレパートリーである、韓国語版マジンガーZもその頃覚えた。

そんな生活も楽しい事ばかりではなく、
キム君の昔の彼女が韓国から男達を連れて責めてきて大騒ぎになったり、
留学生のひとりのハンさんと結婚して韓国に来なさいと皆に詰め寄られたり、
いろいろあったのだが、それはまた別の機会に。

札響に突如訪れた韓流で、「わが青春のハングル」が蘇り、
ちょっとセピアな気持ちになったのであった。  
Posted by arakihitoshi at 23:13Comments(0) │ │音楽