2010年08月06日
モーツァルトを聴いて天才になる方法
ちっくと『竜馬伝』にはまっとるぜよ。そいはええんじゃが、ど〜いて新撰組の土方歳三と『篤姫』んときの大久保一蔵が同いがじゃ?
まっこて、違和感ば感じるぜよ。(あんお人はかっこええんじゃが)
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=============ここから本文=================
モーツァルトを聴かせて育てた果物が甘くなるという話し。
なるほど〜、それはあるかもしれませんね!
やっぱり、芸術っていうのは普遍的ですからね。人間が聴いて心地よいということは、動物や植物にだっていい影響があるはずです。
まさに天上の音楽ですね。モーツァルトが嫌いな人とは付き合いたくありません。
それにしても、いやはや、モーツァルトって言うのはまったくもって偉大だ!
ハラショ〜〜〜〜! アマデウス!!
と言いたい。
私も心からそう思いたい。そして感動を共有したい。
真っ直ぐな心で生きてゆきたい!。
そういうものに私はなりたい!。 アーメン。
しかし、どうでしょうか。
モーツァルト・イヤーでしたっけ?
生誕200年とか言って世の中騒然となっていた年がありました。
モーツァルトを聴くと頭がよくなる。という話が持て囃されました。
某放送協会の番組でもそんな特集が組まれていました。
モーツァルトを聴かせて育てたラットと、何も聴かせないで育てたラットを、迷路で競争させる実験とか、
モーツァルトを聴かせて計算問題を解く学生のグループと、聴かないで解くグループを競争させるとか、
そんな雰囲気だったと思います(うるおぼえ)。
もちろん番組の中の実験結果は言うまでもなくモーツァルト組の勝ちなのですが、
本当にモーツァルト聴いて頭がよくなるんだったら、プロ・オーケストラの楽員なんてみんな天才になってませんかね?
モーツァルトの交響曲とか協奏曲とか序曲とか、1年に何十回も弾きます。たぶんモーツァルトに1度も接しない週っていうのは皆無だと思います。
しかしながら、プロ・オケの楽員がみんな頭がよくなって天才になったという話は聞いたことがありません。少なくとも私は天才になっていません。
モーツァルトに限らずクラシック音楽を、収穫に良いという理由で農作物や家畜に聴かせている農家の話はよく聞きます。
幼児の脳に良いとか、胎教に良いとか、まあいろいろ話はあるわけですが、
でもね、例えばですよ、
1セット1000万円くらいするマッキントッシュのオーディオ・システムで、1枚30万円くらいするマスター・カットの幻の名盤と言われるロックのアナログ・レコードを最高の音響環境の部屋で聴かせて育てたトマトと、
一方で、安物のCDラジカセで、100ショップで買った中国製のニセモノの正体不明なクラシック音楽のCDを、容疑者のアジトみたいな今にも崩れそうなボロアパートで聴かせて育てたトマト。
どちらが甘いでしょうか?
これはもう味がどうとかいう以前に、容疑者のアパートで育てたトマトは枯れるか不良に育ってしまうのではないでしょうか。
少なくとも、クラシックがどうとかジャンルの問題ではない気がします。
私が大学生の頃に流行った遊びにこういうのがありました。
○まず、立ったまま前屈をする。
○次に、煙草の箱を口にくわえて前屈する。
○最後に、キャラメルの箱を口にくわえて前屈する。
これをTVで見てから、私は大学のサークルとか飲み会とかいろいろなところで試したのですが、ほとんどがTVの実験結果どおりになりました。
仮に、なにもくわえない前屈を70とすると、
煙草をくわえた前屈は50くらい、で、キャラメルは驚くことに80とか90くらいいきます。
なぜかそうなるか?
当時のTVの解説によると、理由は「自己暗示」だそうです。
煙草は体に悪い、キャラメルは体に良い、という自己暗示が前屈に影響しているというのです。
ぜひみなさんも試してみてください。
で、トマト。
要するにそういうことなんじゃないかと私は思っています。
モーツァルトを聴かせて育てるということは、その農家の人は「モーツァルトを聴かせると良く育つにちがいない」と思って育てているわけですよね? それこそが自己暗示です。
自然と水や肥料のやりかたなど育て方に差が出ても不思議ではありません。
最近たまたま聞いたラジオの「夏休み子供質問コーナー」みたいな番組で同じような話がありました。
それで突然この話を思い出したのです。
某放送協会の番組の実験に参加した学生たちの実験結果だって、モーツァルトを聴くと頭が良くなる!なんていうオカルト的な理由付けよりも、被験者が「計算が速くなるに違いない」という自己暗示にかかっていた結果、潜在的な能力が引き出された、と考える方がスムーズです。
ラットだって、ネズミに音楽を弁識する能力があると考えるより、実験を行った人の育て方に無意識のうちに差が出たと考える方が現実的です。
で、その番組はよせばいいのに、「なぜモーツァルトの音楽は人間の脳や植物などに好影響を与えるか?」という前提とは言えない前提に結論を出そうとしました。
『f分の1ゆらぎ』とかオカルトっぽい仮説をいろいろ立てては説得力を欠き、最後に苦し紛れに下した結論がちょっと笑えて、
『音符を数えてみたら、現代のポピュラー音楽に比べてモーツァルトの音楽には主要三和音の割合が多い』というおバカなものでした( ̄□ ̄;・・・・・。
「おいおい・・」という感じなのですが、一応簡単に解説しておくと、主要三和音とはハ長調だったらド・ミ・ソのことなんですけど、これはモーツァルトが特に多いわけではなくて、時代を遡るほど和声の構造が単純だから一般的に言って三和音の割合は多くなります。
現代音楽はご存知の通り、不協和音使いまくりでド・ミ・ソの世界ではないですよね?
モーツァルトは現代の音楽に比べれば三和音は多いかもしれませんが、例えばボッケリーニやヘンデルやサリエリなどの同時代の作曲家に比べれば、当時としては先進的な和声を使っている分、厳密に数えたら三和音の割合は少ないはずです(数えてないけど)。
で、本当に主要三和音が多い曲が脳に良いのだったら、例えばスーパー・マーケットの焼き芋売り場とか魚売り場で繰り返しかかっている音楽や、解散命令が出た某真理教のテーマソングなど、妙に耳につく単純でイラッとするメロディーはほとんど三和音で出来ていますから、そっちの方が脳によいことになってしまわないか心配です(笑)。
言わずもがなですが、音楽やましてモーツァルトの価値の全部でも一部でもを三和音の数などというもので計れるわけがありません。
それを、さも科学的に検証したかのごとく番組に仕立てて放送してしまってよいのでしょうか?
それ以来、その番組の情報は全て胡散臭く見えるようになってしまいました。
は〜〜、今回は長年言いたかったことが言えてすっきりしました。
あ、でも、音楽を聴かせて子供が頭良くなるとか、作物がよく育つという話し自体は否定しませんよ!(汗)
少なくとも、良い音楽を少しでも良い環境で聴いて、育てる側が良い精神状態で育てた植物や動物や胎児などに悪い影響は与えないはずです。
いや、良い影響を与えることは間違いないです。
なので、どんどん音楽をかけましょう!
特に、札響のCDがまっこてええっていうもっぱらの評判ですぜ。
信じるものは救れるがじゃ!
ほいたら、また合うじゃき!
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やっぱり、芸術っていうのは普遍的ですからね。人間が聴いて心地よいということは、動物や植物にだっていい影響があるはずです。
まさに天上の音楽ですね。モーツァルトが嫌いな人とは付き合いたくありません。
それにしても、いやはや、モーツァルトって言うのはまったくもって偉大だ!
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と言いたい。
私も心からそう思いたい。そして感動を共有したい。
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そういうものに私はなりたい!。 アーメン。
しかし、どうでしょうか。
モーツァルト・イヤーでしたっけ?
生誕200年とか言って世の中騒然となっていた年がありました。
モーツァルトを聴くと頭がよくなる。という話が持て囃されました。
某放送協会の番組でもそんな特集が組まれていました。
モーツァルトを聴かせて育てたラットと、何も聴かせないで育てたラットを、迷路で競争させる実験とか、
モーツァルトを聴かせて計算問題を解く学生のグループと、聴かないで解くグループを競争させるとか、
そんな雰囲気だったと思います(うるおぼえ)。
もちろん番組の中の実験結果は言うまでもなくモーツァルト組の勝ちなのですが、
本当にモーツァルト聴いて頭がよくなるんだったら、プロ・オーケストラの楽員なんてみんな天才になってませんかね?
モーツァルトの交響曲とか協奏曲とか序曲とか、1年に何十回も弾きます。たぶんモーツァルトに1度も接しない週っていうのは皆無だと思います。
しかしながら、プロ・オケの楽員がみんな頭がよくなって天才になったという話は聞いたことがありません。少なくとも私は天才になっていません。
モーツァルトに限らずクラシック音楽を、収穫に良いという理由で農作物や家畜に聴かせている農家の話はよく聞きます。
幼児の脳に良いとか、胎教に良いとか、まあいろいろ話はあるわけですが、
でもね、例えばですよ、
1セット1000万円くらいするマッキントッシュのオーディオ・システムで、1枚30万円くらいするマスター・カットの幻の名盤と言われるロックのアナログ・レコードを最高の音響環境の部屋で聴かせて育てたトマトと、
一方で、安物のCDラジカセで、100ショップで買った中国製のニセモノの正体不明なクラシック音楽のCDを、容疑者のアジトみたいな今にも崩れそうなボロアパートで聴かせて育てたトマト。
どちらが甘いでしょうか?
これはもう味がどうとかいう以前に、容疑者のアパートで育てたトマトは枯れるか不良に育ってしまうのではないでしょうか。
少なくとも、クラシックがどうとかジャンルの問題ではない気がします。
私が大学生の頃に流行った遊びにこういうのがありました。
○まず、立ったまま前屈をする。
○次に、煙草の箱を口にくわえて前屈する。
○最後に、キャラメルの箱を口にくわえて前屈する。
これをTVで見てから、私は大学のサークルとか飲み会とかいろいろなところで試したのですが、ほとんどがTVの実験結果どおりになりました。
仮に、なにもくわえない前屈を70とすると、
煙草をくわえた前屈は50くらい、で、キャラメルは驚くことに80とか90くらいいきます。
なぜかそうなるか?
当時のTVの解説によると、理由は「自己暗示」だそうです。
煙草は体に悪い、キャラメルは体に良い、という自己暗示が前屈に影響しているというのです。
ぜひみなさんも試してみてください。
で、トマト。
要するにそういうことなんじゃないかと私は思っています。
モーツァルトを聴かせて育てるということは、その農家の人は「モーツァルトを聴かせると良く育つにちがいない」と思って育てているわけですよね? それこそが自己暗示です。
自然と水や肥料のやりかたなど育て方に差が出ても不思議ではありません。
最近たまたま聞いたラジオの「夏休み子供質問コーナー」みたいな番組で同じような話がありました。
それで突然この話を思い出したのです。
某放送協会の番組の実験に参加した学生たちの実験結果だって、モーツァルトを聴くと頭が良くなる!なんていうオカルト的な理由付けよりも、被験者が「計算が速くなるに違いない」という自己暗示にかかっていた結果、潜在的な能力が引き出された、と考える方がスムーズです。
ラットだって、ネズミに音楽を弁識する能力があると考えるより、実験を行った人の育て方に無意識のうちに差が出たと考える方が現実的です。
で、その番組はよせばいいのに、「なぜモーツァルトの音楽は人間の脳や植物などに好影響を与えるか?」という前提とは言えない前提に結論を出そうとしました。
『f分の1ゆらぎ』とかオカルトっぽい仮説をいろいろ立てては説得力を欠き、最後に苦し紛れに下した結論がちょっと笑えて、
『音符を数えてみたら、現代のポピュラー音楽に比べてモーツァルトの音楽には主要三和音の割合が多い』というおバカなものでした( ̄□ ̄;・・・・・。
「おいおい・・」という感じなのですが、一応簡単に解説しておくと、主要三和音とはハ長調だったらド・ミ・ソのことなんですけど、これはモーツァルトが特に多いわけではなくて、時代を遡るほど和声の構造が単純だから一般的に言って三和音の割合は多くなります。
現代音楽はご存知の通り、不協和音使いまくりでド・ミ・ソの世界ではないですよね?
モーツァルトは現代の音楽に比べれば三和音は多いかもしれませんが、例えばボッケリーニやヘンデルやサリエリなどの同時代の作曲家に比べれば、当時としては先進的な和声を使っている分、厳密に数えたら三和音の割合は少ないはずです(数えてないけど)。
で、本当に主要三和音が多い曲が脳に良いのだったら、例えばスーパー・マーケットの焼き芋売り場とか魚売り場で繰り返しかかっている音楽や、解散命令が出た某真理教のテーマソングなど、妙に耳につく単純でイラッとするメロディーはほとんど三和音で出来ていますから、そっちの方が脳によいことになってしまわないか心配です(笑)。
言わずもがなですが、音楽やましてモーツァルトの価値の全部でも一部でもを三和音の数などというもので計れるわけがありません。
それを、さも科学的に検証したかのごとく番組に仕立てて放送してしまってよいのでしょうか?
それ以来、その番組の情報は全て胡散臭く見えるようになってしまいました。
は〜〜、今回は長年言いたかったことが言えてすっきりしました。
あ、でも、音楽を聴かせて子供が頭良くなるとか、作物がよく育つという話し自体は否定しませんよ!(汗)
少なくとも、良い音楽を少しでも良い環境で聴いて、育てる側が良い精神状態で育てた植物や動物や胎児などに悪い影響は与えないはずです。
いや、良い影響を与えることは間違いないです。
なので、どんどん音楽をかけましょう!
特に、札響のCDがまっこてええっていうもっぱらの評判ですぜ。
信じるものは救れるがじゃ!
ほいたら、また合うじゃき!
2010年07月30日
目指せ!背広が似合う男
6月のお祭りで釣ってきた金魚が2匹、まだ元気で生きています。
ブクブクや水草を入れても毎年1〜2週間で死んでいたのですが、 必要なのは”濾過機”だったようです。やっと分かりました。
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ブログが更新されてなくてもクリックは忘れないように! (ここだけの話し、クリックしたあなたにだけ幸せが訪れます・・)
=============ここから本文=================
つい先日、里塚に新しくできたアウトレット・モールに買い物に行きました。
目的のシャツを買った後は何を見るでもなくぶらついていたのですが、「ああ、そうだ、スーツが欲しいんだった」と思い出して、スーツを見て周りました。
話がそれますが、このスーツっていう言い方、やっと慣れましたが、いまだに完全には違和感を拭い去れません。
会社員とかがネクタイをして会社に着ていく服は、私は『スーツ』ではなく『背広』と呼びたいです。
昔はみんな『背広』って呼んでましたよね?
いつから『スーツ』になったんでしょう・・。
『スーツ』って言われると、ガンダムの『モビル・スーツ』とか、もしくは”とんねるず”の”もじもじくん”が着ている黒い全身タイツみたいなのが真っ先に頭に浮かんでしまうんですが、この言語感覚っておかしいですかね?
ズボンがいつのまにかパンツになってしまったり、
チョッキがベストになったり、
とっくりがタートル・ネックになったり、
どうも馴染めないのです。
なので以降は『スーツ』ではなく『背広』と呼びます。
実は私は背広が大好きで、自分で言うのもなんですが、そこそこ似合ってるんじゃないかな?ともひそかに思ったりしているわけです。
いや、思い過ごしかな?
いや、少しは似合ってるんじゃないかな?
いや、・・
まあ、それは置いておいて、幼少の頃から背広の似合う大人の男になりたいと思っていたのは事実。
例えばこんな感じ↓
どうですか!
いや〜、むちゃくちゃダンディーですな〜。
この頃の刑事ドラマは本当にかっこよかったですね。
弁当男子だの草食系だのが流行っている今の日本に、この手のダンディズムはありませんね。
当時の男たちは、煙草とダンヒルの重いライターは持ち歩いていたけど、マイ・ボトルだのマイ・箸的なものは絶対に持ち歩いていませんでした(イメージ)。
整髪料のMG5の匂いをプンプンさせてました(イメージ)。
昼飯は駅の立ち蕎麦や定食屋に行きます(イメージ)。
で、同僚たちとこんな会話をします(当然イメージ)。
「そういや、営業一課の佐藤君、やっこさんここんとこ妙に機嫌がいいじゃないか」
「な〜に、やつは最近えらいベッピンと結婚しやがったのさ」
「本当かい? そいつは羨ましいな」
「そう言うおまえさんのところの細君だってなかなかの美人って評判だぜ」
「うちのワイフがかい? おいおい、冷やかしっこなしにしよじゃないか」
「あははは」
「あははは」
何気ないサラリーマンどうしの会話にも、失われてしまったダンディズムと、
「やっこさん」「おまえさん」「細君」「そいつは〜」「ワイフ」「〜しようじゃないか」
などの失われてしまった言語や言い回しを見出すことができますね。
くつろいでいるようで、どこか保っている・・・、
崩れているようで崩れてない・・・、
当時の日本の男たちからはそういう美学を感じます(オーバーだけど・笑)。
で、幼少の私も大人になったらそういう男たちの仲間入りができるのだと楽しみにしていました。
昼休みは背広の上着を脱いで、ワイシャツにネクタイ姿で会社の近くの喫茶店に行き、
アフター・ファイブには、背広姿でトレンチコートを鞄を持っている方の腕にかけて、受付の女の子とかを飲みに誘うんだと思ってました。
そして、女の子を車の助手席に乗せて、トレンチコートと鞄を後ろの座席にバサッと置いて、助手席の座席の後ろ側に手をかけて、車をバックさせるんだと思ってました。
で、小粋な小料理屋とで小上がりに通されて、座りざまに「やれやれ、うちの会社も人使いが荒いよ」とか言いながら、ネクタイを緩めて第1ボタンだけを外した状態にするんだと思ってました。
「大人の女の人って、そういう男の姿に萌えるんだろうな」と幼少の頃から信じてました。
いや、実は今でも信じてます。
でも世の中、エコというかロハスというか、草食系になりましたね。(・・まあ、今だけかもしれないけど。)
きっと世の中の”大人の女”たちは、こういうロハスな状況を嘆いているのではないでしょうか。
で、ダンディーな男への憧れを思い出して、里塚のモールで背広を探したのですが、どうもイメージしているものが見つかりません。
私は背広は大好きだけど、仕事柄実際に着る機会がないので、夏用と冬用に一着づつしか持っていません。それも今もっているのは安物のうえ形が少し古くなってきたのでここらで10万円台くらいのが一着欲しいところです。
で、見て周ったのですが、今流行の背広ってサイズが小さくてピチピチしていて、試着してもぜんぜんかっこよくありません。
「あれ?? あれ?? 俺ってこんなに背広似合わなかったっけ?」と自分を見失いそうになりました。
ああ〜、そういえば最近の若者ってみんなこういうツンツルテンの寸詰まりの背広着てるな〜〜、と思い出します。
試着室の鏡に映った自分を見て、「まるでアルゴリズム体操の向かって右側の人みたい・・。」と思ってしまいました(鬱)。
特捜最前線のダンディズムとは似ても似つかない・・。
里塚で探そうと思ったのが間違いなんだろうけど、う〜、
まあ、近いうちにまた探したいと思います。
でも、どこでネクタイ緩めて第一ボタン外したり、鞄とコートをばさっと置いたりしようかな・・・。
それやるためだけに背広着て出かける? コスプレの一種だね。課長島耕作のコスプレと思えばありだよね。
背広プレイ・・、うん、いいかもしれない ヽ(´▽`)ノ
それではみなさんごきげんよう。
ブクブクや水草を入れても毎年1〜2週間で死んでいたのですが、 必要なのは”濾過機”だったようです。やっと分かりました。
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つい先日、里塚に新しくできたアウトレット・モールに買い物に行きました。
目的のシャツを買った後は何を見るでもなくぶらついていたのですが、「ああ、そうだ、スーツが欲しいんだった」と思い出して、スーツを見て周りました。
話がそれますが、このスーツっていう言い方、やっと慣れましたが、いまだに完全には違和感を拭い去れません。
会社員とかがネクタイをして会社に着ていく服は、私は『スーツ』ではなく『背広』と呼びたいです。
昔はみんな『背広』って呼んでましたよね?
いつから『スーツ』になったんでしょう・・。
『スーツ』って言われると、ガンダムの『モビル・スーツ』とか、もしくは”とんねるず”の”もじもじくん”が着ている黒い全身タイツみたいなのが真っ先に頭に浮かんでしまうんですが、この言語感覚っておかしいですかね?
ズボンがいつのまにかパンツになってしまったり、
チョッキがベストになったり、
とっくりがタートル・ネックになったり、
どうも馴染めないのです。
なので以降は『スーツ』ではなく『背広』と呼びます。
実は私は背広が大好きで、自分で言うのもなんですが、そこそこ似合ってるんじゃないかな?ともひそかに思ったりしているわけです。
いや、思い過ごしかな?
いや、少しは似合ってるんじゃないかな?
いや、・・
まあ、それは置いておいて、幼少の頃から背広の似合う大人の男になりたいと思っていたのは事実。
例えばこんな感じ↓
どうですか!
いや〜、むちゃくちゃダンディーですな〜。
この頃の刑事ドラマは本当にかっこよかったですね。
弁当男子だの草食系だのが流行っている今の日本に、この手のダンディズムはありませんね。
当時の男たちは、煙草とダンヒルの重いライターは持ち歩いていたけど、マイ・ボトルだのマイ・箸的なものは絶対に持ち歩いていませんでした(イメージ)。
整髪料のMG5の匂いをプンプンさせてました(イメージ)。
昼飯は駅の立ち蕎麦や定食屋に行きます(イメージ)。
で、同僚たちとこんな会話をします(当然イメージ)。
「そういや、営業一課の佐藤君、やっこさんここんとこ妙に機嫌がいいじゃないか」
「な〜に、やつは最近えらいベッピンと結婚しやがったのさ」
「本当かい? そいつは羨ましいな」
「そう言うおまえさんのところの細君だってなかなかの美人って評判だぜ」
「うちのワイフがかい? おいおい、冷やかしっこなしにしよじゃないか」
「あははは」
「あははは」
何気ないサラリーマンどうしの会話にも、失われてしまったダンディズムと、
「やっこさん」「おまえさん」「細君」「そいつは〜」「ワイフ」「〜しようじゃないか」
などの失われてしまった言語や言い回しを見出すことができますね。
くつろいでいるようで、どこか保っている・・・、
崩れているようで崩れてない・・・、
当時の日本の男たちからはそういう美学を感じます(オーバーだけど・笑)。
で、幼少の私も大人になったらそういう男たちの仲間入りができるのだと楽しみにしていました。
昼休みは背広の上着を脱いで、ワイシャツにネクタイ姿で会社の近くの喫茶店に行き、
アフター・ファイブには、背広姿でトレンチコートを鞄を持っている方の腕にかけて、受付の女の子とかを飲みに誘うんだと思ってました。
そして、女の子を車の助手席に乗せて、トレンチコートと鞄を後ろの座席にバサッと置いて、助手席の座席の後ろ側に手をかけて、車をバックさせるんだと思ってました。
で、小粋な小料理屋とで小上がりに通されて、座りざまに「やれやれ、うちの会社も人使いが荒いよ」とか言いながら、ネクタイを緩めて第1ボタンだけを外した状態にするんだと思ってました。
「大人の女の人って、そういう男の姿に萌えるんだろうな」と幼少の頃から信じてました。
いや、実は今でも信じてます。
でも世の中、エコというかロハスというか、草食系になりましたね。(・・まあ、今だけかもしれないけど。)
きっと世の中の”大人の女”たちは、こういうロハスな状況を嘆いているのではないでしょうか。
で、ダンディーな男への憧れを思い出して、里塚のモールで背広を探したのですが、どうもイメージしているものが見つかりません。
私は背広は大好きだけど、仕事柄実際に着る機会がないので、夏用と冬用に一着づつしか持っていません。それも今もっているのは安物のうえ形が少し古くなってきたのでここらで10万円台くらいのが一着欲しいところです。
で、見て周ったのですが、今流行の背広ってサイズが小さくてピチピチしていて、試着してもぜんぜんかっこよくありません。
「あれ?? あれ?? 俺ってこんなに背広似合わなかったっけ?」と自分を見失いそうになりました。
ああ〜、そういえば最近の若者ってみんなこういうツンツルテンの寸詰まりの背広着てるな〜〜、と思い出します。
試着室の鏡に映った自分を見て、「まるでアルゴリズム体操の向かって右側の人みたい・・。」と思ってしまいました(鬱)。
特捜最前線のダンディズムとは似ても似つかない・・。
里塚で探そうと思ったのが間違いなんだろうけど、う〜、
まあ、近いうちにまた探したいと思います。
でも、どこでネクタイ緩めて第一ボタン外したり、鞄とコートをばさっと置いたりしようかな・・・。
それやるためだけに背広着て出かける? コスプレの一種だね。課長島耕作のコスプレと思えばありだよね。
背広プレイ・・、うん、いいかもしれない ヽ(´▽`)ノ
それではみなさんごきげんよう。
2010年07月28日
オケの存在意義まで考えてしまう
本州の酷暑は酷いですな〜〜。心からお見舞い申し上げます。今年ほど北海道にいる幸せを感じたことはありません。
罪深き北海道人を許したまえ! 流しソーメン!
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一番言われてゲンナリする言葉に、
「いいな〜、好きなこと仕事にしてる人は」があります。
この商売やっているといろんな局面でこれを言われるんですよね。
例えば、
楽器持ってタクシーに乗ったときの、運転手さんとの会話で、
久しぶりに偶然会った高校時代の同級生との会話で、
PTAや町内会などの集まりで、
などなど・・
言った人に悪気は無いんだと思います。
ほんの軽口か、いや、ひょっとしたらお世辞のつもりかもしれません
しかし、これを言われると何故か、むしょ〜〜〜にイラつくんですよね(笑)。
「じゃあ、アンタも好きなこと仕事にすればいいだろ!」
と言い返したくなります。
そして続けざまに、
「そしたら、好きなこと仕事にするのが大変なの分かるよ。だいたいさ〜、好きなことっていうけど、好きなことだけしててホントに仕事になると思う? イヤな仕事も請けて、イヤな客とも仲良くして、それが仕事でしょ?違う? それとも何かい? エロいこと好きだったらフーゾクで働けばみんな幸せになれるって言うのかい? 『椿姫』のヴィオレッタは高級フーゾク譲だったけど不幸な末路を遂げたぞ!」
と矢継ぎ早に畳み掛けるように、小一時間そいつを問い詰めたらどんなに気分爽快だろう。と凶暴な気持ちになるのです。(※下部参照)
いやね、音楽を仕事にできて総合的には幸せだと思ってはいるんですけど、イヤだな〜って思うことも当然いろいろあるんです。仕事だから。
指の皮が向けて血が出てるのに楽器弾かなきゃいけないとか、
子供の運動会とか友達の結婚式なんかと演奏会が重なって行けないとか、
ビンボー堪えるお仕事とか(←これ重要)
このビンボーに堪えるお仕事は、とくにこの年になってくると骨身にこたえてきますね〜(苦笑)。
でもまあ、そんなこと言ってたら今の時代の必殺キー・ワード、
「仕事があるだけでもありがたいと思え!」を言われちゃいそうなので、普段は金持ちの振りしてるんですけどね。
さて、ビンボーに堪えるのはキツいのですが、それに比肩してイヤなのが、”あまりにも下らない曲(芸術的な価値が著しく低いかもしくは無いという意味で)などを演奏させられるお仕事”ですかね。
札響はありがたいことに、そういう仕事はあまりないのですが、貧すれば貪す、一般的に言ってオケが貧しくなるのと比例してその手の仕事が増える傾向にあると思います。
昔、某真理教があろうことか、オーケストラを作ったことがありましたよね。
そこの某尊師が作曲した事になっている曲を演奏するためのオーケストラです。(実際には音大出の信者が作っていたんだと思いますが)
「交響曲”真理”第一番」とか、そういうノリだったように記憶しています。
オーケストラの団員は、当時国が崩壊して仕事を失っていたロシアのプロオーケストラ奏者たちだったそうです。
と思ってYouTubeを探したらありました。
これは見てるだけで悲しくなります。
オケの楽員はみんな死んだ魚の目みたいになってますね。
この期に及んで、「仕事なんだから一生懸命演奏しろ」とか、「プロだったらどんな時でも完璧を目指せ」とか、「やる気の無い態度は作曲者やお客に失礼だろ」とか、「この曲を聴いて感動してる人だっているんだぞ!」とか言われてもね〜、と彼らは思ったでしょう。
まあ、確かに当時は感動してる人も一部にはいたのかもしれませんけどね。
もうひとつ。
近くて遠い某国の国立オーケストラの動画を発見しました。
これはどうなんでしょう。
彼らが幸せか不幸かという点では評価が分かれるところだとは思うのですが、
このオーケストラはマーラーの交響曲を暗譜で弾いてしまったりしているそうです(あり得ないほど過酷だと思うけど)。
これを見る限り、演奏はとても上手で疑いようもないプロフェッショナルです。
いろいろ事情があるんだと思います。一生懸命弾いているようには見えるけど、上の動画で演奏している曲の"価値”を彼らは、よ〜〜く分かっているはずです。
私は気の毒に思うんですが、どうなんでしょうね。ひょっとして余計なお世話かもしれません。
彼らから見たら、「金のために演奏するなんて悲しい。思想のために演奏している自分たちのほうがマシだ」と思うのでしょうか。
分かりませんが、どちらにしても悲しいんです。
金儲けだけ考えたらオケの楽員なんて演奏家にとってそれほど割りに合う仕事ではないんでしょうが、それでもベートーヴェンやモーツァルトや、ブラームスやマーラーや、偉大な芸術に常に触れていられます。
苦労してでもいいオケに入れれば、上手な同僚と一緒に一流の指揮者やソリストとハイレベルな聴衆に囲まれて芸術性の高い音楽を共有できます。
だからオケはやめられないんです。
プロだから食っていくためにお金は当然必要なんだけど、もし、お金のためとか思想のためとか、芸術以外の目的に軸足を移しだしたらオケは存在意義を失うでしょうね。
一瞬はいいかもしれないけど、たぶん最終的にはお客さんにも社会にも見捨てられると思います。
これはオケだけではなく、芸術業全般に言えることかもしれません。
さて、痩せても枯れても専門家集団のプロ・オケの楽員から見て、いくら相手が”芸術テイスト”で売っていても、メディアが持て囃していても、生意気に聴こえるかもしれないけど一発でニセモノと分かることも多いんです。
自分たちの信じる(少なくとも私の信じる)オケの存在意義を守るために、明らかなニセモノには近寄らない努力をしなければいけないんでしょうが、
実際にそれを口にするのは、分かっちゃいるけど難しいんですな〜〜。
それではみなさんごきげんよう。
(※)この部分は後の話の展開に弾みをつけるためにわざと書いている”ネタ”です。筆力は至りませんが文脈から判断していただけることを期待しています。
本当に怒り狂っているわけではありませんので抗議のメールは送らないよーに!
罪深き北海道人を許したまえ! 流しソーメン!
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一番言われてゲンナリする言葉に、
「いいな〜、好きなこと仕事にしてる人は」があります。
この商売やっているといろんな局面でこれを言われるんですよね。
例えば、
楽器持ってタクシーに乗ったときの、運転手さんとの会話で、
久しぶりに偶然会った高校時代の同級生との会話で、
PTAや町内会などの集まりで、
などなど・・
言った人に悪気は無いんだと思います。
ほんの軽口か、いや、ひょっとしたらお世辞のつもりかもしれません
しかし、これを言われると何故か、むしょ〜〜〜にイラつくんですよね(笑)。
「じゃあ、アンタも好きなこと仕事にすればいいだろ!」
と言い返したくなります。
そして続けざまに、
「そしたら、好きなこと仕事にするのが大変なの分かるよ。だいたいさ〜、好きなことっていうけど、好きなことだけしててホントに仕事になると思う? イヤな仕事も請けて、イヤな客とも仲良くして、それが仕事でしょ?違う? それとも何かい? エロいこと好きだったらフーゾクで働けばみんな幸せになれるって言うのかい? 『椿姫』のヴィオレッタは高級フーゾク譲だったけど不幸な末路を遂げたぞ!」
と矢継ぎ早に畳み掛けるように、小一時間そいつを問い詰めたらどんなに気分爽快だろう。と凶暴な気持ちになるのです。(※下部参照)
いやね、音楽を仕事にできて総合的には幸せだと思ってはいるんですけど、イヤだな〜って思うことも当然いろいろあるんです。仕事だから。
指の皮が向けて血が出てるのに楽器弾かなきゃいけないとか、
子供の運動会とか友達の結婚式なんかと演奏会が重なって行けないとか、
ビンボー堪えるお仕事とか(←これ重要)
このビンボーに堪えるお仕事は、とくにこの年になってくると骨身にこたえてきますね〜(苦笑)。
でもまあ、そんなこと言ってたら今の時代の必殺キー・ワード、
「仕事があるだけでもありがたいと思え!」を言われちゃいそうなので、普段は金持ちの振りしてるんですけどね。
さて、ビンボーに堪えるのはキツいのですが、それに比肩してイヤなのが、”あまりにも下らない曲(芸術的な価値が著しく低いかもしくは無いという意味で)などを演奏させられるお仕事”ですかね。
札響はありがたいことに、そういう仕事はあまりないのですが、貧すれば貪す、一般的に言ってオケが貧しくなるのと比例してその手の仕事が増える傾向にあると思います。
昔、某真理教があろうことか、オーケストラを作ったことがありましたよね。
そこの某尊師が作曲した事になっている曲を演奏するためのオーケストラです。(実際には音大出の信者が作っていたんだと思いますが)
「交響曲”真理”第一番」とか、そういうノリだったように記憶しています。
オーケストラの団員は、当時国が崩壊して仕事を失っていたロシアのプロオーケストラ奏者たちだったそうです。
と思ってYouTubeを探したらありました。
これは見てるだけで悲しくなります。
オケの楽員はみんな死んだ魚の目みたいになってますね。
この期に及んで、「仕事なんだから一生懸命演奏しろ」とか、「プロだったらどんな時でも完璧を目指せ」とか、「やる気の無い態度は作曲者やお客に失礼だろ」とか、「この曲を聴いて感動してる人だっているんだぞ!」とか言われてもね〜、と彼らは思ったでしょう。
まあ、確かに当時は感動してる人も一部にはいたのかもしれませんけどね。
もうひとつ。
近くて遠い某国の国立オーケストラの動画を発見しました。
これはどうなんでしょう。
彼らが幸せか不幸かという点では評価が分かれるところだとは思うのですが、
このオーケストラはマーラーの交響曲を暗譜で弾いてしまったりしているそうです(あり得ないほど過酷だと思うけど)。
これを見る限り、演奏はとても上手で疑いようもないプロフェッショナルです。
いろいろ事情があるんだと思います。一生懸命弾いているようには見えるけど、上の動画で演奏している曲の"価値”を彼らは、よ〜〜く分かっているはずです。
私は気の毒に思うんですが、どうなんでしょうね。ひょっとして余計なお世話かもしれません。
彼らから見たら、「金のために演奏するなんて悲しい。思想のために演奏している自分たちのほうがマシだ」と思うのでしょうか。
分かりませんが、どちらにしても悲しいんです。
金儲けだけ考えたらオケの楽員なんて演奏家にとってそれほど割りに合う仕事ではないんでしょうが、それでもベートーヴェンやモーツァルトや、ブラームスやマーラーや、偉大な芸術に常に触れていられます。
苦労してでもいいオケに入れれば、上手な同僚と一緒に一流の指揮者やソリストとハイレベルな聴衆に囲まれて芸術性の高い音楽を共有できます。
だからオケはやめられないんです。
プロだから食っていくためにお金は当然必要なんだけど、もし、お金のためとか思想のためとか、芸術以外の目的に軸足を移しだしたらオケは存在意義を失うでしょうね。
一瞬はいいかもしれないけど、たぶん最終的にはお客さんにも社会にも見捨てられると思います。
これはオケだけではなく、芸術業全般に言えることかもしれません。
さて、痩せても枯れても専門家集団のプロ・オケの楽員から見て、いくら相手が”芸術テイスト”で売っていても、メディアが持て囃していても、生意気に聴こえるかもしれないけど一発でニセモノと分かることも多いんです。
自分たちの信じる(少なくとも私の信じる)オケの存在意義を守るために、明らかなニセモノには近寄らない努力をしなければいけないんでしょうが、
実際にそれを口にするのは、分かっちゃいるけど難しいんですな〜〜。
それではみなさんごきげんよう。
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2010年07月20日
「北の大地で育ったチェロ奏者たち2」が終わった
Twitterで1日に100回くらい呟く人っているじゃないですか?。そのバイタリティーに私なんかは圧倒されちゃうんですが、他方で巷に溢れている「焼肉屋なう」みたいな読み手を意識しているとは思えないジャンクなログにはどうしても疑問を感じるのです。年かな・・。
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「北の大地で育ったチェロ奏者たち2」のコンサートが終了した。
500人入る札幌サンプラザホールが満席に近い盛況であった。
前売りの他に、当日券だけで50枚、プレイガイドが30枚という売り上げは、室内楽系の演奏会としては異例の多さといってよい。
ご来場のみなさま、ありがとうございました。
この演奏会は私のチェロの恩師である上原与四郎先生の喜寿を祝って、全国から弟子が集まって演奏した。
前回は1986年に「北の大地で育ったチェロ奏者たち」という演奏会が、同じサンプラザホールで行われた。
私事だが、このときは私はまだチェロ奏者としてはこの世に存在していなかった。
当時、独協大学という普通の大学の経済学部に行っていた私は、ちょうど帰省中でその演奏会を聴く事ができた。
上原先生の弟子の中でも高弟と言っていいプロになった人たちが出演していた。
中には首都圏のオケの首席奏者たちやN響の団員なんかもいて、それはそれはきらびやかな眩いばかりの陣営で、ヴィラ=ロボスのブラジル風バッハなどが演奏された。
私はその物凄さに完全に圧倒され、ただただ阿呆のように口を半開き状態で演奏に聴き入ったのだった。
で、終演後のパーティーに先生にお祝いを申し上げるために恐る恐る出席した。
そこで、上原先生にお願いして出演していた毛利伯朗先生を紹介してもらった。
その後、東京に帰ってから毛利先生には札響に入るまで長い間お世話になった。
毛利先生は今では日本のチェロ界の重鎮といってよい存在だが、当時はまだ30代で、アメリカから帰ってきたばかりだった。今よりはかなり時間もあったように見えた。なので、アマチュアだった私のレッスンも熱心にしていただいて、レッスンの後にビールや夕食をご馳走になったりしたこともあった。ずいぶんといい思いをさせていただいた。
それが災いして幸いして、独協大学を中退して芸大に入りなおして音楽屋の道を選んでしまったわけだが・・。
そんなわけで、私は「北の大地のチェロ奏者たち」にはずっと因縁を感じていた。
今回は、上原先生の喜寿ということで、あの演奏会をもう一度!ということで、門下の文屋さん(札響)と竹本さんと私の3人で実行委員会を作って企画した。
私は上原先生の定年退職と入れ替わりで札響に入ったので、私が入団17年目、ということは先生は喜寿ということになる。
コンセプトが”お祝い”ということもあり、今回はプロ・アマ関係なく声をかけて、沢山で演奏しよう、ということになった。
それもあって、事務処理は煩雑を極めた。
私は主に郵送・連絡係りだったのだが、ハッキリ言って発狂しそうなほど雑用が多かった。
しかも、料金別納で送ったはずの郵便物が大量にスタンプ未押印で戻ってきたりした。なので今回の郵政改革に対しては憤りを感じる日々を送ったりもした。
でもまあ、今回はプロの連中もみんなノー・ギャラ&顎足自分持ちである。音楽業界において師弟関係というのは親子の絆と同等に強いのである。あえて例えるなら括約筋のような強さと言えましょう。
その程度の苦労は当然と思わなければなりません。
さて、結果的には昨日の演奏会は「やってよかった」と心底思えるものになった。
全国から弟子が集まってくる関係上、合わせのための練習は前日のたった一回のみ。
なので合奏上のクォリティーに問題がなかったかと言えばあったと言わざるをえないのは事実だ。
それでも感想を言ってくれたお客さんには、「良かった」と言ってくれた人が多かった。「面白かったよ」と言ってくれた人も何人かいた。
話がそれるが、この「面白かった」という言い回しは、まま使われるフレーズではあるのだがけっこう微妙で、良かったと思ったのなら「良かったよ」と言うはずのところを、ちょっと捻った「面白かったよ」という言い方をチョイスするということは、「必ずしも良かったとは言えないけど、面白くはあったよ」という意味なのか・・、とこちらとしては穿った見方をしてしまうのだ。(やましい気持ちがあるときはなおさら(笑))
演奏家はお笑い芸人ではないので、お客を面白がらせようと思って演奏しているわけではない。
なので「面白かった」といわれるのは必ずしも嬉しくはない。
しかし、こういう時には、次は「良かった」と言ってもらえるようにさらに精進しよう、と考えるのが真摯な態度というものだろう。
それでも今回に限っては総合的には聴いてもらう価値のある演奏会だったと私は自負している。
特に最後の上原先生のソロを約30人の弟子たちが囲んで伴奏した、ボッケリーニの間緩楽章と、アンコールの「鳥の歌」は感動的だったと思う。
私も思わず目頭が熱くなったし、会場で涙ぐんでいるお客さんを何人も見た。
人生をチェロの演奏と指導にひたすら捧げた老チェリストが、多くの弟子に伴奏させてする渾身の演奏が、私が門下生であるという事を差し引いても、価値がないはずは無いだろう、と思うのだ。
上原門下のチェロ奏者の人数はとにかく多い。
郡響から創立当時の札響に先生が来ていらい、絶え間なく輩出された弟子の数は一体何人になるんだろう・・。
日本のチェロ奏者の人口の数パーセントくらいは占めると思う。
国会における社会民主党議員の占める割合よりは多いと思う。
公明党よりちょっと少ないくらい?
まあ、とにかく多いのである。
で、そうした弟子たちに囲まれて喜寿の演奏会でソロを弾く先生は、こういってはなんだが、本当に幸せそうだった。
私はあんな充実した喜寿を迎える自信はない。
昨日の演奏会の打ち上げは大いに盛り上がって、家に帰ったのが3時頃だった。
それでも今日は午前中からレッスンをやって、午後は札響の練習に行って、夜も夕食のあとレッスンをやって、やっとさっき開放された。
ハタラキたい、というより、ハキたい。という状況の中、なんとか1日をこなしたわけだが、これを喜寿まで続けるのか・・・、
だめだめ。絶対ムリ!
ま、それはそれとして、
今回は先生のお祝いができたのも収穫だったが、それに劣らない収穫として、門下生同士の交流ができたことだ。
特に若い世代の人たちと交流ができたのは嬉しかった。
少し前に「先生のところに上手な中学生がいるらしいよ」なんて聞いてたコが、プロオケの楽員や首席奏者になってたり、日本の若手を代表する一人になっていたり。
私なんかすっかりベテラン扱いされる始末であった。
チェロ奏者としてこの世に存在していなかった1回目の「北の大地」コンサートから25年。
長いような、あっという間なような・・。
人の一生って言うのは意外と短いものなのかもしれないと思う今日この頃である。
だったら好きなことやったほうがいいな・・、と思う今日この頃である。
で、まだまだ若いモンには負けんで〜〜〜 とひそかに思いたい今日この頃である。
それではみなさんごきげんよう。
前半で演奏したヴィラ=ロボス「ブラジル風バッハ第1番」のリハーサル風景(向かって左から3番目が私)
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500人入る札幌サンプラザホールが満席に近い盛況であった。
前売りの他に、当日券だけで50枚、プレイガイドが30枚という売り上げは、室内楽系の演奏会としては異例の多さといってよい。
ご来場のみなさま、ありがとうございました。
この演奏会は私のチェロの恩師である上原与四郎先生の喜寿を祝って、全国から弟子が集まって演奏した。
前回は1986年に「北の大地で育ったチェロ奏者たち」という演奏会が、同じサンプラザホールで行われた。
私事だが、このときは私はまだチェロ奏者としてはこの世に存在していなかった。
当時、独協大学という普通の大学の経済学部に行っていた私は、ちょうど帰省中でその演奏会を聴く事ができた。
上原先生の弟子の中でも高弟と言っていいプロになった人たちが出演していた。
中には首都圏のオケの首席奏者たちやN響の団員なんかもいて、それはそれはきらびやかな眩いばかりの陣営で、ヴィラ=ロボスのブラジル風バッハなどが演奏された。
私はその物凄さに完全に圧倒され、ただただ阿呆のように口を半開き状態で演奏に聴き入ったのだった。
で、終演後のパーティーに先生にお祝いを申し上げるために恐る恐る出席した。
そこで、上原先生にお願いして出演していた毛利伯朗先生を紹介してもらった。
その後、東京に帰ってから毛利先生には札響に入るまで長い間お世話になった。
毛利先生は今では日本のチェロ界の重鎮といってよい存在だが、当時はまだ30代で、アメリカから帰ってきたばかりだった。今よりはかなり時間もあったように見えた。なので、アマチュアだった私のレッスンも熱心にしていただいて、レッスンの後にビールや夕食をご馳走になったりしたこともあった。ずいぶんといい思いをさせていただいた。
それが
そんなわけで、私は「北の大地のチェロ奏者たち」にはずっと因縁を感じていた。
今回は、上原先生の喜寿ということで、あの演奏会をもう一度!ということで、門下の文屋さん(札響)と竹本さんと私の3人で実行委員会を作って企画した。
私は上原先生の定年退職と入れ替わりで札響に入ったので、私が入団17年目、ということは先生は喜寿ということになる。
コンセプトが”お祝い”ということもあり、今回はプロ・アマ関係なく声をかけて、沢山で演奏しよう、ということになった。
それもあって、事務処理は煩雑を極めた。
私は主に郵送・連絡係りだったのだが、ハッキリ言って発狂しそうなほど雑用が多かった。
しかも、料金別納で送ったはずの郵便物が大量にスタンプ未押印で戻ってきたりした。なので今回の郵政改革に対しては憤りを感じる日々を送ったりもした。
でもまあ、今回はプロの連中もみんなノー・ギャラ&顎足自分持ちである。音楽業界において師弟関係というのは親子の絆と同等に強いのである。あえて例えるなら括約筋のような強さと言えましょう。
その程度の苦労は当然と思わなければなりません。
さて、結果的には昨日の演奏会は「やってよかった」と心底思えるものになった。
全国から弟子が集まってくる関係上、合わせのための練習は前日のたった一回のみ。
なので合奏上のクォリティーに問題がなかったかと言えばあったと言わざるをえないのは事実だ。
それでも感想を言ってくれたお客さんには、「良かった」と言ってくれた人が多かった。「面白かったよ」と言ってくれた人も何人かいた。
話がそれるが、この「面白かった」という言い回しは、まま使われるフレーズではあるのだがけっこう微妙で、良かったと思ったのなら「良かったよ」と言うはずのところを、ちょっと捻った「面白かったよ」という言い方をチョイスするということは、「必ずしも良かったとは言えないけど、面白くはあったよ」という意味なのか・・、とこちらとしては穿った見方をしてしまうのだ。(やましい気持ちがあるときはなおさら(笑))
演奏家はお笑い芸人ではないので、お客を面白がらせようと思って演奏しているわけではない。
なので「面白かった」といわれるのは必ずしも嬉しくはない。
しかし、こういう時には、次は「良かった」と言ってもらえるようにさらに精進しよう、と考えるのが真摯な態度というものだろう。
それでも今回に限っては総合的には聴いてもらう価値のある演奏会だったと私は自負している。
特に最後の上原先生のソロを約30人の弟子たちが囲んで伴奏した、ボッケリーニの間緩楽章と、アンコールの「鳥の歌」は感動的だったと思う。
私も思わず目頭が熱くなったし、会場で涙ぐんでいるお客さんを何人も見た。
人生をチェロの演奏と指導にひたすら捧げた老チェリストが、多くの弟子に伴奏させてする渾身の演奏が、私が門下生であるという事を差し引いても、価値がないはずは無いだろう、と思うのだ。
上原門下のチェロ奏者の人数はとにかく多い。
郡響から創立当時の札響に先生が来ていらい、絶え間なく輩出された弟子の数は一体何人になるんだろう・・。
日本のチェロ奏者の人口の数パーセントくらいは占めると思う。
国会における社会民主党議員の占める割合よりは多いと思う。
公明党よりちょっと少ないくらい?
まあ、とにかく多いのである。
で、そうした弟子たちに囲まれて喜寿の演奏会でソロを弾く先生は、こういってはなんだが、本当に幸せそうだった。
私はあんな充実した喜寿を迎える自信はない。
昨日の演奏会の打ち上げは大いに盛り上がって、家に帰ったのが3時頃だった。
それでも今日は午前中からレッスンをやって、午後は札響の練習に行って、夜も夕食のあとレッスンをやって、やっとさっき開放された。
ハタラキたい、というより、ハキたい。という状況の中、なんとか1日をこなしたわけだが、これを喜寿まで続けるのか・・・、
だめだめ。絶対ムリ!
ま、それはそれとして、
今回は先生のお祝いができたのも収穫だったが、それに劣らない収穫として、門下生同士の交流ができたことだ。
特に若い世代の人たちと交流ができたのは嬉しかった。
少し前に「先生のところに上手な中学生がいるらしいよ」なんて聞いてたコが、プロオケの楽員や首席奏者になってたり、日本の若手を代表する一人になっていたり。
私なんかすっかりベテラン扱いされる始末であった。
チェロ奏者としてこの世に存在していなかった1回目の「北の大地」コンサートから25年。
長いような、あっという間なような・・。
人の一生って言うのは意外と短いものなのかもしれないと思う今日この頃である。
だったら好きなことやったほうがいいな・・、と思う今日この頃である。
で、まだまだ若いモンには負けんで〜〜〜 とひそかに思いたい今日この頃である。
それではみなさんごきげんよう。
前半で演奏したヴィラ=ロボス「ブラジル風バッハ第1番」のリハーサル風景(向かって左から3番目が私)
2010年07月04日
真空管の深みにハマりそうになる
連日暑いですね。暑いと人間開放的になりますな〜。
南の島は1年中こんな感じか〜、それも悪くないな・・。と思う今日このごろです。
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趣味のオーディオ・ブログ路線でいく! というつもりはないのですが、今回もオーディオの話です(笑)
前回、レコードの盤面を顕微鏡で見る、という話をしました。
顕微鏡で見ても汚れの付着が見られないのに、なぜスクラッチ・ノイズがおきるのだろう?という話でした。
放送関係の専門の方などからも情報をいただき、「やはり静電気だろう」ということになったのですが、そうなると今度は「静電気のおきる盤とおきない盤の違いはどこに?」という疑問が沸いてきます。
昔、写真の現像をやっていたのですが、現像したフィルムを引き伸ばし機にかける際に、ピストルのような機械でフィルムの静電気を一瞬にして逃がしてしまうという道具がありました。
当時の私には高価であの機械は買えなかったのですが、今なら大人なので買えます(笑)。
静電気を放電したフィルムは嘘のように埃を寄せ付けません(カメラ屋で見たことがあります)。
今度、ぜひあのピストルを買って(今でも売ってたら)レコードに応用してみようと思っています。
さて、以前オーディオのハードにはこれ以上はまらないと書いたのですが、最近真空管に少し興味がわいてきました。
ご存知のように真空管アンプは、真空管を差し替えることによって音質を変えることができます。
なかなか奥深い世界のようです。真空管マニアのような人たちも存在します。
真空管をコレクションして、いろいろ差し替えて楽しむわけです。
なので真空管は、ハードなんだけれどもソフト的な面もある、ということが言えると思います。
こないだ私の弟が私の影響で真空管アンプを購入したので、持ち寄って私のアンプと弟のアンプを聴き比べてみるという遊びをしました。
真空管アンプには大きく分けてシングル式とプッシュプル式という2種類があります。
両者の説明はここでは省きますが(というか説明できるほど詳しくないですが)、要するに一長一短あるようです。
私のアンプはプッシュプル式。弟のはシングル式というやつです。
回路の形式こそ違え、私たちのアンプはふたつとも出力管(メインの真空管)にKT-88というのを使っています。
シングル式とプッシュプル式を比べるのに好都合な条件です。
オーディオセットの背面に手を突っ込んで、悪戦苦闘しながらコードを差したり抜いたりしながら聴き比べ大会をしました。
「う〜ん、シングルの方が音の伸びがいいね」
「プッシュプルは音の重心が下にあって艶もあるんだけど、伸びという点ではイマイチだね・・」
などと分かった様な分からない様な薀蓄合戦をするわけです。
興味のない人が見たら、さぞ”寒い”光景でしょうが、ハマるとこれが実に楽しいのです。
で、ふと疑問が浮かびました。
同じKT-88でも、真空管を差し替えてみたらどうなるんだろう・・?
さっそく、私のプッシュプルのKT-88を弟のシングルに差して聴きなおしてみました。
(`口´;) 弟のアンプから私のプッシュプル・アンプの音がする・・
そうです。少なくともさっきまで傾けていた薀蓄は全てリセットされました。
私たちがアンプの個性だと思っていたのは、ほとんど真空管の個性だったのです。
同じKT-88なのに、です。
生産国や生産時期の違いでここまで音が違ってしまうんですね。
ということは、別の真空管を着けたら全く違うアンプになるでしょう。
これは面白いです。真空管にはまる人の気持ちが少し分かりました。
(KT-88を乗せ替え中の様子。左がプッシュプル、右がシングル)
で、そんなことをTwitterでつぶやいていたら、先日東京からチェロのエキストラで来たM城君が、出力管(上の写真の大きい方の真空管)も大切だけど、初段管(前の小さい方の真空管)も付け替えると面白いよ。と、真空管を4本わざわざ東京から持ってきて貸してくれました。
さすがはマニアのM城君だけだって、軍用に作られた高品質の物など逸品が揃っていました。
さっそく家に帰って差し替えて聴いてみました。
4本三種類試して、それぞれ個性があって面白いのですが、例の軍用品は格別で音の雰囲気が劇的に変わりました。
借りたのは英国製やドイツ製なのですが、もともと着いている中国製(たぶん)から1〜2ランク位高級感が増した気がします。
これは病み付きになりそうな世界です。
オーディオは富裕層以外が手を出してはいけないお金のかかる危険な遊び。という認識を長年持ち続けて、オーディオにだけは手を出すまいと自戒してきたのですが、1本数千円程度の真空管でここまで楽しめるなら、これは庶民の娯楽と言っていいと思います。
次回東京に行ったときは、真空管専門店なども覗いてみたいと思います。
さて、最後にiPhoneネタです。
最近、iPhoneを真空管アンプに繋いでオーディオを聴くということをしています。
iPhoneの下部のDockコネクターをアンプのRCAのジャックに繋ぎます。
音源はダウンロードしたものでもよいのですが、私は主にNAXOSのミュージック・ライブラリーの音源を聴いています。(1800円/月で会員になった)
(iPhone直繋ぎで、初段管の聴き比べ中)
iPhone直繋ぎ。これはなかなか良いです。
レコードの様に彫りの深いクールな臨場感、とは違いますが、CDよりかなりレコード的な音がする気がします。
それもそのはずで、普及機クラスのCDプレイヤーの様にデータのコマ落ちもないし、1分10Mバイト分のデータをキッチリ全て読み込めるわけです。
何十万円もするハイエンドなCDプレイヤーを買わなくてもいいということになれば、今後はCDというメディアは衰退していくのではないでしょうか。
ためしにNAXOSのライブラリーにあった札響のCD各種を手持ちのCDと聴き比べてみましたが、私の環境ではiPhoneの勝ちに聴こえました。
尤も、CDの再生機やその他の条件に大きく左右されるでしょうから、あくまで私の環境での話です。
iPhoneのDockコネクターから出力するためのツールを探すのに少し手間取りました。
私が使っているのは下のやつです。ご参考までに。
この方法はお勧めです。iPhoneやiPod持っている方は是非試してみてください!
それではみなさんごきげんよう。
これと↑、これ↓ を合わせる。(カスタマー・レビューの評価が低いですが、これにいきなりヘッドフォンを差したりなど、使い方を勘違いしている人が評価を下げているようです)
南の島は1年中こんな感じか〜、それも悪くないな・・。と思う今日このごろです。
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趣味のオーディオ・ブログ路線でいく! というつもりはないのですが、今回もオーディオの話です(笑)
前回、レコードの盤面を顕微鏡で見る、という話をしました。
顕微鏡で見ても汚れの付着が見られないのに、なぜスクラッチ・ノイズがおきるのだろう?という話でした。
放送関係の専門の方などからも情報をいただき、「やはり静電気だろう」ということになったのですが、そうなると今度は「静電気のおきる盤とおきない盤の違いはどこに?」という疑問が沸いてきます。
昔、写真の現像をやっていたのですが、現像したフィルムを引き伸ばし機にかける際に、ピストルのような機械でフィルムの静電気を一瞬にして逃がしてしまうという道具がありました。
当時の私には高価であの機械は買えなかったのですが、今なら大人なので買えます(笑)。
静電気を放電したフィルムは嘘のように埃を寄せ付けません(カメラ屋で見たことがあります)。
今度、ぜひあのピストルを買って(今でも売ってたら)レコードに応用してみようと思っています。
さて、以前オーディオのハードにはこれ以上はまらないと書いたのですが、最近真空管に少し興味がわいてきました。
ご存知のように真空管アンプは、真空管を差し替えることによって音質を変えることができます。
なかなか奥深い世界のようです。真空管マニアのような人たちも存在します。
真空管をコレクションして、いろいろ差し替えて楽しむわけです。
なので真空管は、ハードなんだけれどもソフト的な面もある、ということが言えると思います。
こないだ私の弟が私の影響で真空管アンプを購入したので、持ち寄って私のアンプと弟のアンプを聴き比べてみるという遊びをしました。
真空管アンプには大きく分けてシングル式とプッシュプル式という2種類があります。
両者の説明はここでは省きますが(というか説明できるほど詳しくないですが)、要するに一長一短あるようです。
私のアンプはプッシュプル式。弟のはシングル式というやつです。
回路の形式こそ違え、私たちのアンプはふたつとも出力管(メインの真空管)にKT-88というのを使っています。
シングル式とプッシュプル式を比べるのに好都合な条件です。
オーディオセットの背面に手を突っ込んで、悪戦苦闘しながらコードを差したり抜いたりしながら聴き比べ大会をしました。
「う〜ん、シングルの方が音の伸びがいいね」
「プッシュプルは音の重心が下にあって艶もあるんだけど、伸びという点ではイマイチだね・・」
などと分かった様な分からない様な薀蓄合戦をするわけです。
興味のない人が見たら、さぞ”寒い”光景でしょうが、ハマるとこれが実に楽しいのです。
で、ふと疑問が浮かびました。
同じKT-88でも、真空管を差し替えてみたらどうなるんだろう・・?
さっそく、私のプッシュプルのKT-88を弟のシングルに差して聴きなおしてみました。
(`口´;) 弟のアンプから私のプッシュプル・アンプの音がする・・
そうです。少なくともさっきまで傾けていた薀蓄は全てリセットされました。
私たちがアンプの個性だと思っていたのは、ほとんど真空管の個性だったのです。
同じKT-88なのに、です。
生産国や生産時期の違いでここまで音が違ってしまうんですね。
ということは、別の真空管を着けたら全く違うアンプになるでしょう。
これは面白いです。真空管にはまる人の気持ちが少し分かりました。
(KT-88を乗せ替え中の様子。左がプッシュプル、右がシングル)
で、そんなことをTwitterでつぶやいていたら、先日東京からチェロのエキストラで来たM城君が、出力管(上の写真の大きい方の真空管)も大切だけど、初段管(前の小さい方の真空管)も付け替えると面白いよ。と、真空管を4本わざわざ東京から持ってきて貸してくれました。
さすがはマニアのM城君だけだって、軍用に作られた高品質の物など逸品が揃っていました。
さっそく家に帰って差し替えて聴いてみました。
4本三種類試して、それぞれ個性があって面白いのですが、例の軍用品は格別で音の雰囲気が劇的に変わりました。
借りたのは英国製やドイツ製なのですが、もともと着いている中国製(たぶん)から1〜2ランク位高級感が増した気がします。
これは病み付きになりそうな世界です。
オーディオは富裕層以外が手を出してはいけないお金のかかる危険な遊び。という認識を長年持ち続けて、オーディオにだけは手を出すまいと自戒してきたのですが、1本数千円程度の真空管でここまで楽しめるなら、これは庶民の娯楽と言っていいと思います。
次回東京に行ったときは、真空管専門店なども覗いてみたいと思います。
さて、最後にiPhoneネタです。
最近、iPhoneを真空管アンプに繋いでオーディオを聴くということをしています。
iPhoneの下部のDockコネクターをアンプのRCAのジャックに繋ぎます。
音源はダウンロードしたものでもよいのですが、私は主にNAXOSのミュージック・ライブラリーの音源を聴いています。(1800円/月で会員になった)
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iPhone直繋ぎ。これはなかなか良いです。
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それもそのはずで、普及機クラスのCDプレイヤーの様にデータのコマ落ちもないし、1分10Mバイト分のデータをキッチリ全て読み込めるわけです。
何十万円もするハイエンドなCDプレイヤーを買わなくてもいいということになれば、今後はCDというメディアは衰退していくのではないでしょうか。
ためしにNAXOSのライブラリーにあった札響のCD各種を手持ちのCDと聴き比べてみましたが、私の環境ではiPhoneの勝ちに聴こえました。
尤も、CDの再生機やその他の条件に大きく左右されるでしょうから、あくまで私の環境での話です。
iPhoneのDockコネクターから出力するためのツールを探すのに少し手間取りました。
私が使っているのは下のやつです。ご参考までに。
この方法はお勧めです。iPhoneやiPod持っている方は是非試してみてください!
それではみなさんごきげんよう。
これと↑、これ↓ を合わせる。(カスタマー・レビューの評価が低いですが、これにいきなりヘッドフォンを差したりなど、使い方を勘違いしている人が評価を下げているようです)
2010年06月21日
デイ・キャンプは計画的に
Twitterの更新はラク。ラクゆえに、言わなくていいことまで言っちまうトラブルがあっちこっちで起きてるみたいですね。
とりあえず、自分は気をつけよう・・。
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さあさあ、今日もクリックしてください。とにかくクリックしてください。一刻も早くクリックしてください。
ブログが更新されてなくてもクリックは忘れないように! (ここだけの話し、クリックしたあなたにだけ幸せが訪れます・・)
=============ここから本文=================
今日は休日だったので、子供たちを連れて支笏湖にデイ・キャンプ(日帰りキャンプ)に行った。
目的は、カヌーと、釣りと、ダッチオープンでのピザ作りである。
支笏湖のモーラップキャンプ場はまだシーズン始めで人は少なかった。
おかげで隣と距離を置いてゆったりとタープを設営できた。
札幌は暑かったが、支笏湖は相変わらず薄霧がたちこめて涼しかった。
カヌーは初めて4シーズンめになる。
扱いにもかなり慣れた。
組み立て式のファルト・ボートも、説明書を見ずに15分ほどで完成させられるようになった。
今日の支笏湖は凪いでいて、湖面は鏡面のように波ひとつなかった。
こういう時の湖に漕ぎ出すのは実に楽しい。
森の木々が湖に覆いかぶさった岸辺にカヌーを近づけて、鳥の声に耳を傾けてみたりする。
おっと・・、そろそろピザが焼けている頃だな。
テントのある岸に向かって漕ぎ出すか・・。
う〜〜ん、マンダム。これが大人の休日ってやつである (と、Twitterではつぶやいておこう。)
が、現実はそんなに甘くもないし優雅でもなかったのである。
今日は朝起きるのがしんどかった。
昨日のサッカーの試合のお陰で、練習や事務仕事が深夜にずれ込みすごい寝不足。ウィスキーも少し飲みすぎた模様・・。
軽い頭痛を覚えながら起床。
「雨降ってたらいいな・・」という淡い希望が一瞬脳裏をかすめた。
大きな荷物は昨日のうちに車に積んでおいたのでいいのだが、
タオルやら替えの下着やら、細々とした荷物をまとめるのに手間どう。
ピザ用にベランダで栽培しているバジルを摘んで完了。
なんとか出発。目標の9時からだいぶ遅れて10時近かった。
急いで支笏湖に向かう。
と、思いきや、真駒内でいきなり交通規制!
(`口´;)げはっ!、 なに〜? マラソン大会だ〜〜〜?
大渋滞に巻き込まれる。ここでも30分はロスしたと思う。
「あ! 着火マン忘れた!」と思い出して、道中最後のコンビにに寄る。危ね〜、もう少しで原始人みたいに木を擦って火を起こす羽目になるところだったよ・・。
で、昼近くにやっと支笏湖に到着。
キャンプは到着してからが大忙しなのである。
タープを組み立てて、
炭を起こして、
カヌーも組み立てる。
こまごました椅子やテーブルなんかも組み立てて設置する。
その間に、子供たちがかわるがわるに、「トイレ〜」とか、「まだ〜?」とか言ったりしてうるさい。
やっとの思いで全て組み立てて、息をつく暇もなくピザを焼き始める。
「あ! クッキングペーパー忘れた!」
これがないと、ピザ直焼きで面倒なことになる。
しょうがないのでアルミホイルで代用してみる。
で、夕べ作っておいたピザ生地が微妙に醗酵しちゃってて、包んでおいたラップにべっとり張り付いてるのを一生懸命はがしながら、「おなかすいた〜〜」と言う子供に、「ちょっと待ちなさい!」と半分キレそうになりながら悪戦苦闘すること20分くらい。
やっとピザ1枚目が焼ける。
あ〜〜、やっぱり。アルミホイルが張り付いちゃったよ・・。
で、また一生懸命アルミホイルをはがす。
やっとの思いで1枚目を食べる。
まあ、味は悪くないな・・。
少し機嫌がなおる。
で、2枚目を食べたあたりでカヌーに子供1号を乗せてやる。
3枚目を火にかけておいたので、せいぜい5分で戻らないとな・・。
カヌーを漕ぎ出して1分くらいで、子供2号の「パパーー!」という叫び声!。
何かと思って慌てて戻ってみると、飛んできたカラスにピザ用に切ってきたベーコンを全て持ち去られたとのこと・・(`口´;)
手前がアルミホイルの付着したピザ。
もうすぐカラスに奪われるベーコンがタッパーに入っている。
まあいい。ベーコンはそろそろ食い飽きたと思っていたところだ。
で、子供1号と子供2号を代わる代わるカヌーに乗せてやって、その後、先日職場のM川さんに貰った釣り竿にサラミのキレッ端を付けて釣りの真似ごとをしてみる。
カヌーからは湖に魚が沢山泳いでいるのが見えたが、カレイ釣り用の仕掛けにサラミを付けた針に食いつくお間抜けな魚がいるとも思えない。
しかしながら一応、岸から釣り糸を投げ込んで「でっかいのが釣れるかもしれないから、しっかり持ってろよ」とか言って子供1号に竿を持たせて放置。
まさに”子供だまし”である。
ってなわけで、支笏湖に到着してから2時間ほど経過して、やっと椅子に座る。
腰が痛い。
ノン・アルコール・ビールを飲みながら、iPhoneでTwitterとか見始める。
3分もくつろがないうちに、子供2号が「釣れたよーー!」とか叫んでる。
釣れるわけねーだろ・・、と思いながら仕方ないので行ってみると、確かに子供1号の持っている竿の先の針が何かを捕らえているようだ・・。
「ごみ?」
一応リールを巻いて引き上げてみると、『週刊ポスト』だった・・(`口´;)
エロい袋とじグラビア写真が表になってなくてよかったよ・・。
と、安堵したのもつかの間・・。
なにやらポツポツと冷たいものが頬に触る。
ヤバい。雨だ!
撤収〜〜〜!!
とにかく細かい荷物を車に入れよう・・。
焦って荷物をまとめているうちに雨はどんどん激しくなっていった。
早く帰りたいよ〜〜。
帰ってパソコンの前で、後は寝るだけっていう状態でピール飲みたいよ〜。
「パトラッシュ 僕はもう疲れたよ・・」
というわけで、
デイ・キャンプは欲張らずに目標を絞ろう。
というお話でした。
「パトラッシュ… 疲れたろ…。僕も疲れたんだ。なんだかとても眠いんだ。」
そろそろ寝ます。
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今日は休日だったので、子供たちを連れて支笏湖にデイ・キャンプ(日帰りキャンプ)に行った。
目的は、カヌーと、釣りと、ダッチオープンでのピザ作りである。
支笏湖のモーラップキャンプ場はまだシーズン始めで人は少なかった。
おかげで隣と距離を置いてゆったりとタープを設営できた。
札幌は暑かったが、支笏湖は相変わらず薄霧がたちこめて涼しかった。
カヌーは初めて4シーズンめになる。
扱いにもかなり慣れた。
組み立て式のファルト・ボートも、説明書を見ずに15分ほどで完成させられるようになった。
今日の支笏湖は凪いでいて、湖面は鏡面のように波ひとつなかった。
こういう時の湖に漕ぎ出すのは実に楽しい。
森の木々が湖に覆いかぶさった岸辺にカヌーを近づけて、鳥の声に耳を傾けてみたりする。
おっと・・、そろそろピザが焼けている頃だな。
テントのある岸に向かって漕ぎ出すか・・。
う〜〜ん、マンダム。これが大人の休日ってやつである (と、Twitterではつぶやいておこう。)
が、現実はそんなに甘くもないし優雅でもなかったのである。
今日は朝起きるのがしんどかった。
昨日のサッカーの試合のお陰で、練習や事務仕事が深夜にずれ込みすごい寝不足。ウィスキーも少し飲みすぎた模様・・。
軽い頭痛を覚えながら起床。
「雨降ってたらいいな・・」という淡い希望が一瞬脳裏をかすめた。
大きな荷物は昨日のうちに車に積んでおいたのでいいのだが、
タオルやら替えの下着やら、細々とした荷物をまとめるのに手間どう。
ピザ用にベランダで栽培しているバジルを摘んで完了。
なんとか出発。目標の9時からだいぶ遅れて10時近かった。
急いで支笏湖に向かう。
と、思いきや、真駒内でいきなり交通規制!
(`口´;)げはっ!、 なに〜? マラソン大会だ〜〜〜?
大渋滞に巻き込まれる。ここでも30分はロスしたと思う。
「あ! 着火マン忘れた!」と思い出して、道中最後のコンビにに寄る。危ね〜、もう少しで原始人みたいに木を擦って火を起こす羽目になるところだったよ・・。
で、昼近くにやっと支笏湖に到着。
キャンプは到着してからが大忙しなのである。
タープを組み立てて、
炭を起こして、
カヌーも組み立てる。
こまごました椅子やテーブルなんかも組み立てて設置する。
その間に、子供たちがかわるがわるに、「トイレ〜」とか、「まだ〜?」とか言ったりしてうるさい。
やっとの思いで全て組み立てて、息をつく暇もなくピザを焼き始める。
「あ! クッキングペーパー忘れた!」
これがないと、ピザ直焼きで面倒なことになる。
しょうがないのでアルミホイルで代用してみる。
で、夕べ作っておいたピザ生地が微妙に醗酵しちゃってて、包んでおいたラップにべっとり張り付いてるのを一生懸命はがしながら、「おなかすいた〜〜」と言う子供に、「ちょっと待ちなさい!」と半分キレそうになりながら悪戦苦闘すること20分くらい。
やっとピザ1枚目が焼ける。
あ〜〜、やっぱり。アルミホイルが張り付いちゃったよ・・。
で、また一生懸命アルミホイルをはがす。
やっとの思いで1枚目を食べる。
まあ、味は悪くないな・・。
少し機嫌がなおる。
で、2枚目を食べたあたりでカヌーに子供1号を乗せてやる。
3枚目を火にかけておいたので、せいぜい5分で戻らないとな・・。
カヌーを漕ぎ出して1分くらいで、子供2号の「パパーー!」という叫び声!。
何かと思って慌てて戻ってみると、飛んできたカラスにピザ用に切ってきたベーコンを全て持ち去られたとのこと・・(`口´;)
手前がアルミホイルの付着したピザ。
もうすぐカラスに奪われるベーコンがタッパーに入っている。
まあいい。ベーコンはそろそろ食い飽きたと思っていたところだ。
で、子供1号と子供2号を代わる代わるカヌーに乗せてやって、その後、先日職場のM川さんに貰った釣り竿にサラミのキレッ端を付けて釣りの真似ごとをしてみる。
カヌーからは湖に魚が沢山泳いでいるのが見えたが、カレイ釣り用の仕掛けにサラミを付けた針に食いつくお間抜けな魚がいるとも思えない。
しかしながら一応、岸から釣り糸を投げ込んで「でっかいのが釣れるかもしれないから、しっかり持ってろよ」とか言って子供1号に竿を持たせて放置。
まさに”子供だまし”である。
ってなわけで、支笏湖に到着してから2時間ほど経過して、やっと椅子に座る。
腰が痛い。
ノン・アルコール・ビールを飲みながら、iPhoneでTwitterとか見始める。
3分もくつろがないうちに、子供2号が「釣れたよーー!」とか叫んでる。
釣れるわけねーだろ・・、と思いながら仕方ないので行ってみると、確かに子供1号の持っている竿の先の針が何かを捕らえているようだ・・。
「ごみ?」
一応リールを巻いて引き上げてみると、『週刊ポスト』だった・・(`口´;)
エロい袋とじグラビア写真が表になってなくてよかったよ・・。
と、安堵したのもつかの間・・。
なにやらポツポツと冷たいものが頬に触る。
ヤバい。雨だ!
撤収〜〜〜!!
とにかく細かい荷物を車に入れよう・・。
焦って荷物をまとめているうちに雨はどんどん激しくなっていった。
早く帰りたいよ〜〜。
帰ってパソコンの前で、後は寝るだけっていう状態でピール飲みたいよ〜。
「パトラッシュ 僕はもう疲れたよ・・」
というわけで、
デイ・キャンプは欲張らずに目標を絞ろう。
というお話でした。
「パトラッシュ… 疲れたろ…。僕も疲れたんだ。なんだかとても眠いんだ。」
そろそろ寝ます。
それではみなさん、ごきげんよう。
2010年06月07日
レコードの盤面を顕微鏡で見る【前編】
発売日の翌日にiPadをヨドバシで触ってきました。
そして、半年以内に間違いなく買っている自分の姿を霊視しました。
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=============ここから本文=================
さて、今日は久々の(でもないが)オーディオネタである。
私のオーディオ熱はまだ続いている。
所かまわず相手かまわず、最近買ったレコードの話などを熱く語ってしまうので、若干周囲が引き気味である。
しかし、職場の先輩などがそんな私をみかねて、貴重レコードや貴重カートリッジなどを気前よくポンポンと貸してくれるのでネタには不自由していない。
いろいろ聴けて本当に楽しい。楽しいのであるが、でもやはりこういう趣味のものは究極的には”所有”したい。
自分の物にしてナンボである。
本でもレコードでも、自分で蒐集したものをズラッと並べていとおしんだり悦に入ったりしたい。
そして、並べてある本だったら背表紙とかレコードだったらビニールのバリの部分なんかを、指の裏側や爪のところでパタパタパタ・・・、とやりたいものである。
そして時には顔を埋めて匂いを嗅いだりもしたい。
他人から借用しているものは、パタパタしたいとか匂いを嗅ぎたいとは思わない。
自分の脳内の分身たる蒐集した物でなければパタパタ欲は生じないということだと思う。
そんなわけで、ハード面は一段落したので、というかしがない財団職員の身でそうそう高価な機材を買えるわけはなく、最近はもっぱらレコードをネットでコツコツと探して買っている。
レコードも高いものは高い。
例えばチェリビダッケのブルックナーなんて何十万円もするものもある。
しかし、私の興味は主に室内楽や、オーケストラでもマイナーな分野に向いているので、私にとっては貴重なレコードが比較的安価で手に入るので助かっている。
上の写真は、最近入手したレコードの一例。
左はシュワルツコップ/セル/ベルリン放送響のR・シュトラウスの「四つの最後の歌」。
これは奮発して8,500円くらい出した。CDは持っていたがレコードで聴くと感動ひとしおである。
そして最近特に凝っているのが、旧東ドイツや旧チェコスロバキアなどの旧東欧圏のレコードである。
写真の中央はチェコスロバキア時代のスプラフォン・レーベルのブラームスのクラ5。(スメタナS.Q/レバ)。
右側が旧東ドイツのレーベル「エテルナ」の、ベートーヴェン/ピアノ三重奏op.70。ヴァイオリンは札響にも指揮で何度も来ているボッセさん(ゲヴァントハウスのコンマス時代)である。これは貴重である。
マスター・プレスか、条件から考えて限りなくその可能性が高い盤を集めているわけだが、それでもこの手の室内楽レコードは1000円〜2000円代で買えてしまうことが多い。
こないだなんて、アマデウスS.Q.のモーツァルトの初期の弦楽四重奏集4枚組の”新品未開封”(40年前の物なのに新品)が2,250円で買えてしまった。
やはり室内楽というのは儲からないのだ!(苦笑)
で、この旧東欧圏のレーベルたちは得も言われぬオーディオ的で魅力的な音を醸し出してくれる。
西側のグラモフォンとかEMIとか、その他いろいろのレーベルももちろんいいんだけど、東欧圏レーベルは一味違うのである。万人受けはしないのかもしれないが・・。
聞くところによると、東欧では貧乏ゆえに90年代まで真空管製の録音機材が当然に使われていたそうである。それがかえって良かったのかもしれない。
あるいは、昔の東欧だったらレコードなんてきっと特権階級向けとか輸出向けの贅沢品だったんだろうから、逆に採算度外視でいいものを作っていたのかもしれない。
どちらにしろ、"粗悪"とは程遠い、むしろ丁寧に作り込んだ印象を受けるレコードたちである。
で、こうなってくると気になるのは、やはりレコードのコンディションである。
せっかく貴重版を手に入れても、スクラッチノイズがあまりに酷いと辛いものがある。
レーベル保護用のグッズ&歯ブラシでレコードを水洗いする話は以前書いた。この方法は一定の効果はあげるが、それでもノイズがあまり消えない盤もある。
見ても傷があるわけでもなし・・。
なんで??
というわけで思い悩んだ挙句、顕微鏡出動。
我ながら、ここまでやるか・・、と思いつつ・・。
特にノイズの酷い盤の溝を50倍くらいに拡大して見てみる。
アタッチメント無いから、接眼レンズにカメラのレンズを押し当てて撮った写真がこれ。
これだとちょっと分かりにくいが、目で覗くとはるかによく見えている。
私はてっきり手の油が溝の深い部分に入り込んで、長い年月の間に酸化したりして溝を腐食し、あるいは磯の粒貝のように、もしくは小さな虫の卵や幼虫が木の幹などにぎっしり付着したように、盤の塩化ビニールと付加一体化し、おぞましいブツブツの光景が見えるかと思っていた。
しかし、予想に反して盤の溝は綺麗であった。
ブツブツなんてどこにもない。
さらに"研究"は続くのだが、そろそろ夜も更けたので今日は寝ます。
それではみなさん、おやすみなさい。
【つづく】
そして、半年以内に間違いなく買っている自分の姿を霊視しました。
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私のオーディオ熱はまだ続いている。
所かまわず相手かまわず、最近買ったレコードの話などを熱く語ってしまうので、若干周囲が引き気味である。
しかし、職場の先輩などがそんな私をみかねて、貴重レコードや貴重カートリッジなどを気前よくポンポンと貸してくれるのでネタには不自由していない。
いろいろ聴けて本当に楽しい。楽しいのであるが、でもやはりこういう趣味のものは究極的には”所有”したい。
自分の物にしてナンボである。
本でもレコードでも、自分で蒐集したものをズラッと並べていとおしんだり悦に入ったりしたい。
そして、並べてある本だったら背表紙とかレコードだったらビニールのバリの部分なんかを、指の裏側や爪のところでパタパタパタ・・・、とやりたいものである。
そして時には顔を埋めて匂いを嗅いだりもしたい。
他人から借用しているものは、パタパタしたいとか匂いを嗅ぎたいとは思わない。
自分の脳内の分身たる蒐集した物でなければパタパタ欲は生じないということだと思う。
そんなわけで、ハード面は一段落したので、というかしがない財団職員の身でそうそう高価な機材を買えるわけはなく、最近はもっぱらレコードをネットでコツコツと探して買っている。
レコードも高いものは高い。
例えばチェリビダッケのブルックナーなんて何十万円もするものもある。
しかし、私の興味は主に室内楽や、オーケストラでもマイナーな分野に向いているので、私にとっては貴重なレコードが比較的安価で手に入るので助かっている。
上の写真は、最近入手したレコードの一例。
左はシュワルツコップ/セル/ベルリン放送響のR・シュトラウスの「四つの最後の歌」。
これは奮発して8,500円くらい出した。CDは持っていたがレコードで聴くと感動ひとしおである。
そして最近特に凝っているのが、旧東ドイツや旧チェコスロバキアなどの旧東欧圏のレコードである。
写真の中央はチェコスロバキア時代のスプラフォン・レーベルのブラームスのクラ5。(スメタナS.Q/レバ)。
右側が旧東ドイツのレーベル「エテルナ」の、ベートーヴェン/ピアノ三重奏op.70。ヴァイオリンは札響にも指揮で何度も来ているボッセさん(ゲヴァントハウスのコンマス時代)である。これは貴重である。
マスター・プレスか、条件から考えて限りなくその可能性が高い盤を集めているわけだが、それでもこの手の室内楽レコードは1000円〜2000円代で買えてしまうことが多い。
こないだなんて、アマデウスS.Q.のモーツァルトの初期の弦楽四重奏集4枚組の”新品未開封”(40年前の物なのに新品)が2,250円で買えてしまった。
やはり室内楽というのは儲からないのだ!(苦笑)
で、この旧東欧圏のレーベルたちは得も言われぬオーディオ的で魅力的な音を醸し出してくれる。
西側のグラモフォンとかEMIとか、その他いろいろのレーベルももちろんいいんだけど、東欧圏レーベルは一味違うのである。万人受けはしないのかもしれないが・・。
聞くところによると、東欧では貧乏ゆえに90年代まで真空管製の録音機材が当然に使われていたそうである。それがかえって良かったのかもしれない。
あるいは、昔の東欧だったらレコードなんてきっと特権階級向けとか輸出向けの贅沢品だったんだろうから、逆に採算度外視でいいものを作っていたのかもしれない。
どちらにしろ、"粗悪"とは程遠い、むしろ丁寧に作り込んだ印象を受けるレコードたちである。
で、こうなってくると気になるのは、やはりレコードのコンディションである。
せっかく貴重版を手に入れても、スクラッチノイズがあまりに酷いと辛いものがある。
レーベル保護用のグッズ&歯ブラシでレコードを水洗いする話は以前書いた。この方法は一定の効果はあげるが、それでもノイズがあまり消えない盤もある。
見ても傷があるわけでもなし・・。
なんで??
というわけで思い悩んだ挙句、顕微鏡出動。
我ながら、ここまでやるか・・、と思いつつ・・。
特にノイズの酷い盤の溝を50倍くらいに拡大して見てみる。
アタッチメント無いから、接眼レンズにカメラのレンズを押し当てて撮った写真がこれ。
これだとちょっと分かりにくいが、目で覗くとはるかによく見えている。
私はてっきり手の油が溝の深い部分に入り込んで、長い年月の間に酸化したりして溝を腐食し、あるいは磯の粒貝のように、もしくは小さな虫の卵や幼虫が木の幹などにぎっしり付着したように、盤の塩化ビニールと付加一体化し、おぞましいブツブツの光景が見えるかと思っていた。
しかし、予想に反して盤の溝は綺麗であった。
ブツブツなんてどこにもない。
さらに"研究"は続くのだが、そろそろ夜も更けたので今日は寝ます。
それではみなさん、おやすみなさい。
【つづく】
2010年05月31日
トレンディ・ドラマを懐かしむ
超ひさびさの更新・・。みなさま、お元気でしたか?
わしが留守の間、ランキングのクリックご苦労であった。(`▽´)
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ブログが更新されてなくてもクリックは忘れないように! (ここだけの話し、クリックしたあなたにだけ幸せが訪れます・・)
=============ここから本文=================
さて、Twitterっていうのはナンですな・・。
今までは、書きたいネタを1週間なり溜めておいて、一気にブログで吐き出していたのですが、
最近はTwitterで毎日話しを小出しにするもんだから、意識が分散するっていうか、なんて言うか。
やっぱり何事も、毎日より「たまに」のほうがいいってことですかね。
趣味のうちは良かったのに仕事にした途端につまらなくなるとか、
恋人同士のときは萌えたのに結婚したとたんに・・とかね。
あ、一般論ですよ。一般論。わたしの話じゃありませんから!(汗
で、今日はお題っていうほど準備もしてないのですが、
1980年代〜90年代に流行したトレンディ・ドラマを懐かしんでみましょう。
こないだ偶然に台湾の動画サイトで「東京ラブストーリー」がかかっていて、つい時間を忘れて見入ってしまいました。
わたしはこのテーマ曲、小田和正の「ラブストーリーは突然に」を聴いただけで、1990年にタイムスリップして切ない気持ちになってしまいます。
また合ってたんですよね。このドラマとこの曲。
鈴木保奈美はかわいかったな〜〜〜〜。
織田裕二なんて今とそんなに変わってないような気がしますが、このドラマの頃はまだ携帯電話もパソコンすら一般人は持っていない世界でした。
今から思うと信じられません。
80年代後半〜90年代前半、当時わたしは今と違ってTVドラマが大好きで、ビデオに撮って週に何本も見ていました。
トレンディ・ドラマを系統的・網羅的に語っているサイトは沢山あるので、ここで繰り返すことはしませんが、
主人公の女性は屈託が無くハッキリとした性格で、相手役の男は煮え切らない性格。
今では”当たり前”の男女関係ですが(苦笑)、”弁当男子”も”肉食系女子”も存在しない当時は憧れのフィクションだったんだと思います。
そして、その二人の恋を軸に、男3人、女3人の計6人くらいで、ドロドロせずにあくまで軽いコミカルなタッチで愛憎劇を描く、
というのがトレンディ・ドラマの基本パターンだったと思います。
で、出演者たちは白いタイル壁の青山とか六本木とかのマンションに住んでおり、床はフローリング、観葉植物とソファーのみのリビング。冷蔵庫にはバドワイザーがぎっしり、という生活観のない暮らしをしています。
東京ラブ・ストーリーの赤名リカの住まいもそんな感じでした。
皆、20代の若手社員だったり、フリーターだったりするわけですが、そういう高級な所に住んで、会社帰りにはお洒落なショットバーみたいな店に必ず立ち寄ります。
今見るとすごく嘘っぽいのですが、「そんな現実もありかな・・」って思える時代でした。
トレンディ・ドラマでとても印象に残っているのは「君が嘘をついた」という、88年のトレンディ・ドラマ初期のころの番組です。
(今見るとみんな眉毛太い・・。雪だるまみたい。)
たしか、プリンセス・プリンセスはこのドラマの主題歌でブレイクしたんだと思います。
この後ヒットした「ダイヤモンドだね〜〜〜」は、バブル時代のテーマ曲と言ってよいほど巷に溢れていました。
当時はパソコンが無かったので、家に帰ってきてPCの電源入れてネットに耽るということもなく、風呂に入ってビール片手にビデオに撮ったその日のドラマを見る、というのが一般的な若者のライフスタイルだったと思います。
で、11時頃になると電話タイムで、誰かしらから電話が掛かってきて長電話してました。
電話(しかも固定電話)が唯一のコミュニケーション・ツールだったとは、これまた今では信じられません。
なので、ドラマから受ける影響は絶大だったと思います。
トレンディ・ドラマがあの時代の空気を作っていた、と言っても過言ではないと思います。
当時の中堅から若者世代の日本人は、ドラマの出演者たちみたいにみんな軽いタッチで生きていたように思います。
社会全体が萎縮してしまっている現代とちがって、日本中が自信に満ちていた時代でした。
実際、日本にいれば失業なんてあり得ないし、貯蓄なんてしなくてもどうにかなるはずだし、ってみんな言っていました。
ニュース23とか、裏番組のナンでしたっけ? 木村さんのやつ。
とかでも、銀行の合併なんてあると、「日本で一番ということは、すなわち世界で一番であります」なんてコメントしてました。
そもそもこの時代に”バブル”っていう言葉はありませんでしたしね。
単に「日本が強くなった」と日本人全員が思ってました。
この当時、私は大学生とフリー奏者時代を送っていましたが、フリー奏者時代は本当に仕事が溢れていて、100万円以上稼げる月もありました。
でも、当時のすべての日本人と同様、私もいつまでもその状態が続くと信じて疑ってなかったので、貯蓄なんてせずに全部遊んで使い切ってました(笑
今思うとアホだな〜、と思う反面、最近の”草食系弁当男子”とか見てると少し可哀想になったりもします。
ま、彼らは彼らで楽しんでいるのかもしれませんが・・。
いい時代だったと思います。
カムバック! バブル!! (ま、ムリだと思うけどね・・)
それではみなさん、ごきげんよう。
わしが留守の間、ランキングのクリックご苦労であった。(`▽´)
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さて、Twitterっていうのはナンですな・・。
今までは、書きたいネタを1週間なり溜めておいて、一気にブログで吐き出していたのですが、
最近はTwitterで毎日話しを小出しにするもんだから、意識が分散するっていうか、なんて言うか。
やっぱり何事も、毎日より「たまに」のほうがいいってことですかね。
趣味のうちは良かったのに仕事にした途端につまらなくなるとか、
恋人同士のときは萌えたのに結婚したとたんに・・とかね。
あ、一般論ですよ。一般論。わたしの話じゃありませんから!(汗
で、今日はお題っていうほど準備もしてないのですが、
1980年代〜90年代に流行したトレンディ・ドラマを懐かしんでみましょう。
こないだ偶然に台湾の動画サイトで「東京ラブストーリー」がかかっていて、つい時間を忘れて見入ってしまいました。
わたしはこのテーマ曲、小田和正の「ラブストーリーは突然に」を聴いただけで、1990年にタイムスリップして切ない気持ちになってしまいます。
また合ってたんですよね。このドラマとこの曲。
鈴木保奈美はかわいかったな〜〜〜〜。
織田裕二なんて今とそんなに変わってないような気がしますが、このドラマの頃はまだ携帯電話もパソコンすら一般人は持っていない世界でした。
今から思うと信じられません。
80年代後半〜90年代前半、当時わたしは今と違ってTVドラマが大好きで、ビデオに撮って週に何本も見ていました。
トレンディ・ドラマを系統的・網羅的に語っているサイトは沢山あるので、ここで繰り返すことはしませんが、
主人公の女性は屈託が無くハッキリとした性格で、相手役の男は煮え切らない性格。
今では”当たり前”の男女関係ですが(苦笑)、”弁当男子”も”肉食系女子”も存在しない当時は憧れのフィクションだったんだと思います。
そして、その二人の恋を軸に、男3人、女3人の計6人くらいで、ドロドロせずにあくまで軽いコミカルなタッチで愛憎劇を描く、
というのがトレンディ・ドラマの基本パターンだったと思います。
で、出演者たちは白いタイル壁の青山とか六本木とかのマンションに住んでおり、床はフローリング、観葉植物とソファーのみのリビング。冷蔵庫にはバドワイザーがぎっしり、という生活観のない暮らしをしています。
東京ラブ・ストーリーの赤名リカの住まいもそんな感じでした。
皆、20代の若手社員だったり、フリーターだったりするわけですが、そういう高級な所に住んで、会社帰りにはお洒落なショットバーみたいな店に必ず立ち寄ります。
今見るとすごく嘘っぽいのですが、「そんな現実もありかな・・」って思える時代でした。
トレンディ・ドラマでとても印象に残っているのは「君が嘘をついた」という、88年のトレンディ・ドラマ初期のころの番組です。
(今見るとみんな眉毛太い・・。雪だるまみたい。)
たしか、プリンセス・プリンセスはこのドラマの主題歌でブレイクしたんだと思います。
この後ヒットした「ダイヤモンドだね〜〜〜」は、バブル時代のテーマ曲と言ってよいほど巷に溢れていました。
当時はパソコンが無かったので、家に帰ってきてPCの電源入れてネットに耽るということもなく、風呂に入ってビール片手にビデオに撮ったその日のドラマを見る、というのが一般的な若者のライフスタイルだったと思います。
で、11時頃になると電話タイムで、誰かしらから電話が掛かってきて長電話してました。
電話(しかも固定電話)が唯一のコミュニケーション・ツールだったとは、これまた今では信じられません。
なので、ドラマから受ける影響は絶大だったと思います。
トレンディ・ドラマがあの時代の空気を作っていた、と言っても過言ではないと思います。
当時の中堅から若者世代の日本人は、ドラマの出演者たちみたいにみんな軽いタッチで生きていたように思います。
社会全体が萎縮してしまっている現代とちがって、日本中が自信に満ちていた時代でした。
実際、日本にいれば失業なんてあり得ないし、貯蓄なんてしなくてもどうにかなるはずだし、ってみんな言っていました。
ニュース23とか、裏番組のナンでしたっけ? 木村さんのやつ。
とかでも、銀行の合併なんてあると、「日本で一番ということは、すなわち世界で一番であります」なんてコメントしてました。
そもそもこの時代に”バブル”っていう言葉はありませんでしたしね。
単に「日本が強くなった」と日本人全員が思ってました。
この当時、私は大学生とフリー奏者時代を送っていましたが、フリー奏者時代は本当に仕事が溢れていて、100万円以上稼げる月もありました。
でも、当時のすべての日本人と同様、私もいつまでもその状態が続くと信じて疑ってなかったので、貯蓄なんてせずに全部遊んで使い切ってました(笑
今思うとアホだな〜、と思う反面、最近の”草食系弁当男子”とか見てると少し可哀想になったりもします。
ま、彼らは彼らで楽しんでいるのかもしれませんが・・。
いい時代だったと思います。
カムバック! バブル!! (ま、ムリだと思うけどね・・)
それではみなさん、ごきげんよう。
Posted by arakihitoshi at 00:50
│Comments(6)
│
2010年05月15日
現代曲とどう向き合うか
今日はkitaraの桜が満開でした。やっと暖かくなってきましたね。
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今日は正直な話をします。
正直者は救われます。「正直じいさんポチ連れて」と昔から言いますね。
"正直は三文の得"。"善人なおもて往生をとぐ、いわんや正直をや"。とか。
法律の世界でも、"嘘つきは正直者の第三者に対抗できない"という絶対原則があります。
で、現代曲の話です。
例えば、今日の定期でやった柴田南雄の「シンフォニア」。
どうですかね? みなさん分かりましたか?
柴田南雄は有名だしヘンな曲書くとも思えないんだけど、でもね、ベートーヴェンやブラームスにだって秀作とか駄作とか言われてる曲はあるわけで、有名な人が書いたから即ち傑作だ!とは言い切れないわけですよね。
先月の三善晃の「交響三章」はどうでしたか?
まあ、今月の柴田南雄よりは分かりやすいって言えば分かりやすい気もしますけどね。
どちらにせよ、こういう新しい曲やるときは、私のような勤勉なオーケストラ奏者は何とかしてCDなどの音源を入手します。
で、少なくとも練習の始まる1週間くらい前にはライブラリアンから楽譜を借りて持ち帰って家で予習します。
まずはCDを聴きながら楽譜を読むわけですが、ほとんどの場合(少なくとも上の2曲の場合)第一印象は、
「なんじゃ、こりゃ?」 です。
なんだか譜割りもよく分かんないし、旋律がどこにあるかも分からないし、
聴いていても何拍子か分からないし、
どきどき打楽器がグヮ〜〜〜ンとかいったりして、弦楽器がひょえ〜〜〜〜〜ッといったと思うと、木管楽器がピロロロ〜〜〜〜〜となって・・、金管楽器が最後のほうで派手にバフッ!バフーーー! とかなるわけです。
楽譜は大抵の場合、前に演奏したオーケストラの書き込みが入っていて、印刷した上に奏者の鉛筆書きで、「ここは三拍子」っていう意味の三角印とか、一旦止まるから注意しろ!みたいな意味のびっくりマークとか、長い休符の後で出るときなんかに分からなくならないように、直前で旋律をやっている楽器の動きを小さく休符のところに書いてあったりするわけです。
要するに、”苦労のあとが偲ばれる状態”になっているのです。
で、正直言って「この楽譜をさらうのか・・、はぁ〜」とため息をついて、ゲンナリした気持ちになるのです。
そう、今日のサブ・テーマは”正直”ですからね。
「不真面目だ!」とか言って怒らないでくださいね。
そんで、しぶしぶ楽譜を音に直していくわけです。
「えっと、ここは・・? ああ、8分の3.5拍子ってことね・・。ってことは、タンタンタタタ って振るわけね・・」とか考えながら読んでいくのです。
で、CDを聴いてテンポを確認して、
「あ、そっか、こっからanimatoだから少し早くなっていって、ここから♪=120になるわけね・・、ってことは、ここの16分音符地帯はけっこう早いな・・、これはさらわないと弾けね〜な・・。」とか思ったりするわけです。
で、その16分音符地帯が思いのほか難しかったりすると、
「なんでこんなややこしい曲持ってくるんだよ!」とか指揮者の顔を思い浮かべてうらめしく思うわけです。
「ちきしょー、こんな一生懸命練習してもこの曲なんかもう一生弾かないんだろうな・・・」とか思ったり、
「苦労してさらっても、お客もなんだかよく分からなくて、唖然とした顔するんだろうな〜〜」とか思って虚しくなったりするわけです。
でも仕方ないので、ブツブツ思いながらもメトロノームを使ってゆっくりのテンポから始めて最終的には早く弾けるように練習します。
で、一応弾けるレベルに持っていって初日の練習に臨みます。
まあ、こういうオケにとって初演の曲の場合は大多数の人は譜面を見てきてますから、曲は止まらずに通るんですが、最後まで弾き終えた後にオーケストラの頭上に、「なんじゃ?こりゃ?」の巨大な「?」マークが浮かぶわけです。
この「?」マークは、芸術の森で練習している場合は南区から定山渓にかけて。kitaraで練習している場合は中央区をほぼ覆うくらいの巨大さです。
定期の練習は3日間ありますから、その”よく分からない曲”と本番もあわせて5日間付き合うことになります。
私の場合、今回の柴田さんの曲の価値がなんとな〜く分かったのが3日目の練習頃でした。
当日のリハーサルでやっと「なるほどね〜、いい曲かも」という気持ちになりました。
芸術っていうのは要するに”必然性”だと思うので、「ここにあるのはこの音じゃないといけない!」っていう必然性の積み重ねが見えてこないと、曲の価値がぜんぜん分からないです。
ロマン派の時代の美しいメロディーに満ち溢れた曲と違って、現代曲は抽象的に書かれた曲が多いですから、その必然性が分かるまでにはかなりの時間を要します。(少なくとも私はそうです)
さて、こうした"価値はあれども難解な現代曲"とどう向き合うか。
これは難しいテーマですね〜〜。
雑誌なんかの演奏会評とかで、初演以来50年ぶりの再演みたいな超マイナー曲を取り上げて、
『鳶彬朗の代表作のひとつである”交響断章「涅槃菩薩十四章"金箔"」”は、土俗的なモチーフを反復させ形而上的に昇華させることが求められる難曲だが、高関の指揮にこの日の札響はよく応えた。特に第三章で見せた天馬天かける如き金管郡の慟哭にも似たコラールは白眉。あえて欲を言えば、間緩楽章での弦楽器にさらなる透明感を求めたいところ 』(イメージ)
みたいなのを目にすることがありますが、
正直言って、「え?? なんで一回聴いただけでそこまでわかるの?」と感心させられます。
有名な曲ならともかく、録音も実演もほとんど無いような現代曲を、一回の本番を聴いただけで評価できるのは神業的だと思います。私にはできません。
ま、それは冗談としても(笑)、やはり現代曲に関しては、リハーサルを公開するとか、例えばPodcastやネットを使って事前に音源や解説を配布するなどしたほうが、みんなが楽しめるし、現代曲をやる意味も得られるような気がします。メディアも充実してきた昨今、そういう時代の流れになればいいと思います。
というか、”現代曲を紹介する”という以上、本当はそこまでやらないと目的を達成できないと思います。
札響が最近やりはじめたプレ解説は、こういう曲の場合とても良いと思います。
ま、なんと言っても、せっかく苦労して練習して一生懸命弾いたのに、キタラを埋め尽くすお客さんの頭上に浮かぶ「?」マークを見るのが辛い、っていう話しなんですよね(笑)。
「・・・だから現代曲はやらない」っていうネガティブな方向じゃなく、「こうしたら現代曲はできる」っていうポジティブな方向で考えれるようになりたいもんです。(他力本願ですが)
どんなもんでしょ・・?
それではみなさんごきげんよう。
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正直者は救われます。「正直じいさんポチ連れて」と昔から言いますね。
"正直は三文の得"。"善人なおもて往生をとぐ、いわんや正直をや"。とか。
法律の世界でも、"嘘つきは正直者の第三者に対抗できない"という絶対原則があります。
で、現代曲の話です。
例えば、今日の定期でやった柴田南雄の「シンフォニア」。
どうですかね? みなさん分かりましたか?
柴田南雄は有名だしヘンな曲書くとも思えないんだけど、でもね、ベートーヴェンやブラームスにだって秀作とか駄作とか言われてる曲はあるわけで、有名な人が書いたから即ち傑作だ!とは言い切れないわけですよね。
先月の三善晃の「交響三章」はどうでしたか?
まあ、今月の柴田南雄よりは分かりやすいって言えば分かりやすい気もしますけどね。
どちらにせよ、こういう新しい曲やるときは、私のような勤勉なオーケストラ奏者は何とかしてCDなどの音源を入手します。
で、少なくとも練習の始まる1週間くらい前にはライブラリアンから楽譜を借りて持ち帰って家で予習します。
まずはCDを聴きながら楽譜を読むわけですが、ほとんどの場合(少なくとも上の2曲の場合)第一印象は、
「なんじゃ、こりゃ?」 です。
なんだか譜割りもよく分かんないし、旋律がどこにあるかも分からないし、
聴いていても何拍子か分からないし、
どきどき打楽器がグヮ〜〜〜ンとかいったりして、弦楽器がひょえ〜〜〜〜〜ッといったと思うと、木管楽器がピロロロ〜〜〜〜〜となって・・、金管楽器が最後のほうで派手にバフッ!バフーーー! とかなるわけです。
楽譜は大抵の場合、前に演奏したオーケストラの書き込みが入っていて、印刷した上に奏者の鉛筆書きで、「ここは三拍子」っていう意味の三角印とか、一旦止まるから注意しろ!みたいな意味のびっくりマークとか、長い休符の後で出るときなんかに分からなくならないように、直前で旋律をやっている楽器の動きを小さく休符のところに書いてあったりするわけです。
要するに、”苦労のあとが偲ばれる状態”になっているのです。
で、正直言って「この楽譜をさらうのか・・、はぁ〜」とため息をついて、ゲンナリした気持ちになるのです。
そう、今日のサブ・テーマは”正直”ですからね。
「不真面目だ!」とか言って怒らないでくださいね。
そんで、しぶしぶ楽譜を音に直していくわけです。
「えっと、ここは・・? ああ、8分の3.5拍子ってことね・・。ってことは、タンタンタタタ って振るわけね・・」とか考えながら読んでいくのです。
で、CDを聴いてテンポを確認して、
「あ、そっか、こっからanimatoだから少し早くなっていって、ここから♪=120になるわけね・・、ってことは、ここの16分音符地帯はけっこう早いな・・、これはさらわないと弾けね〜な・・。」とか思ったりするわけです。
で、その16分音符地帯が思いのほか難しかったりすると、
「なんでこんなややこしい曲持ってくるんだよ!」とか指揮者の顔を思い浮かべてうらめしく思うわけです。
「ちきしょー、こんな一生懸命練習してもこの曲なんかもう一生弾かないんだろうな・・・」とか思ったり、
「苦労してさらっても、お客もなんだかよく分からなくて、唖然とした顔するんだろうな〜〜」とか思って虚しくなったりするわけです。
でも仕方ないので、ブツブツ思いながらもメトロノームを使ってゆっくりのテンポから始めて最終的には早く弾けるように練習します。
で、一応弾けるレベルに持っていって初日の練習に臨みます。
まあ、こういうオケにとって初演の曲の場合は大多数の人は譜面を見てきてますから、曲は止まらずに通るんですが、最後まで弾き終えた後にオーケストラの頭上に、「なんじゃ?こりゃ?」の巨大な「?」マークが浮かぶわけです。
この「?」マークは、芸術の森で練習している場合は南区から定山渓にかけて。kitaraで練習している場合は中央区をほぼ覆うくらいの巨大さです。
定期の練習は3日間ありますから、その”よく分からない曲”と本番もあわせて5日間付き合うことになります。
私の場合、今回の柴田さんの曲の価値がなんとな〜く分かったのが3日目の練習頃でした。
当日のリハーサルでやっと「なるほどね〜、いい曲かも」という気持ちになりました。
芸術っていうのは要するに”必然性”だと思うので、「ここにあるのはこの音じゃないといけない!」っていう必然性の積み重ねが見えてこないと、曲の価値がぜんぜん分からないです。
ロマン派の時代の美しいメロディーに満ち溢れた曲と違って、現代曲は抽象的に書かれた曲が多いですから、その必然性が分かるまでにはかなりの時間を要します。(少なくとも私はそうです)
さて、こうした"価値はあれども難解な現代曲"とどう向き合うか。
これは難しいテーマですね〜〜。
雑誌なんかの演奏会評とかで、初演以来50年ぶりの再演みたいな超マイナー曲を取り上げて、
『鳶彬朗の代表作のひとつである”交響断章「涅槃菩薩十四章"金箔"」”は、土俗的なモチーフを反復させ形而上的に昇華させることが求められる難曲だが、高関の指揮にこの日の札響はよく応えた。特に第三章で見せた天馬天かける如き金管郡の慟哭にも似たコラールは白眉。あえて欲を言えば、間緩楽章での弦楽器にさらなる透明感を求めたいところ 』(イメージ)
みたいなのを目にすることがありますが、
正直言って、「え?? なんで一回聴いただけでそこまでわかるの?」と感心させられます。
有名な曲ならともかく、録音も実演もほとんど無いような現代曲を、一回の本番を聴いただけで評価できるのは神業的だと思います。私にはできません。
ま、それは冗談としても(笑)、やはり現代曲に関しては、リハーサルを公開するとか、例えばPodcastやネットを使って事前に音源や解説を配布するなどしたほうが、みんなが楽しめるし、現代曲をやる意味も得られるような気がします。メディアも充実してきた昨今、そういう時代の流れになればいいと思います。
というか、”現代曲を紹介する”という以上、本当はそこまでやらないと目的を達成できないと思います。
札響が最近やりはじめたプレ解説は、こういう曲の場合とても良いと思います。
ま、なんと言っても、せっかく苦労して練習して一生懸命弾いたのに、キタラを埋め尽くすお客さんの頭上に浮かぶ「?」マークを見るのが辛い、っていう話しなんですよね(笑)。
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どんなもんでしょ・・?
それではみなさんごきげんよう。
2010年05月10日
人生のバイオリズム 脱線してボランティア演奏
Twitterの札響公式アカウント、そろそろできていい頃ですよね〜〜。ガンガレ事務局! みんなも応援してね!(o^-')b チェキラ!
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=============ここから本文=================
人生のバイオリズムというのは確かに感じます。
バイオリズムが好調なときは仕事も上手くいくし、健康だし、面白い文章も書けるし、モテるし・・・。
自分に自信が持てて、何をやってもたいてい上手くいくような気になります。
一方バイオリズムが不調なときは、何をやっても裏目に出る確率大。こういうときはおとなしくしてるに限ります。
バイオリズムの大きな波は10年位の単位でくるような気がします。
小さい波は1月単位くらいですかね。
株で言えば、年足、月足、日足、みたいなやつですね。
さてさて、オーケストラ奏者というのは勤めているオケの業務のほかに、個人でも演奏の仕事やレッスンをしているのが普通なのですが、高バイオリズムの時にはスパンスパン仕事が入ります。
「まだまだ若い奴らには負けんで〜〜〜! がははは」となるのですが、
低バイオリズムの時は嘘のように仕事の電話が鳴りません。
こういう時は、「俺の時代は終わったな・・。」とへこみます。
で、無いよりマシと思って、異様にギャラの安いボランティアみたいな仕事を引き受けちゃったりするわけです。
すると、後から同じ日めがけてちょっとギャラのいい仕事のオファーが来て(`口´;)げはっ! となり、
さらに、狙ったようにその日にC十万の仕事が来て /()゚O゚()\ひぃー となったりします。
先に受けた仕事が優先なので泣く泣く後の仕事を断るわけです。
やはり低バイオリズムの時は無駄な抵抗はやめておとなしく本でも読んでいるに限ります。
さて、書こうと思っていたテーマと外れるのですが、話のついでにボランティア演奏について少し考えてみたいと思います。
私たちプロの演奏者がボランティアといえども演奏業務を引き受けた場合、約束した日に約束した場所に赴き、演奏という債務を履行する責任を負うものと私は解しています。
「後からもっといい仕事が入っちゃったからごめんね!」なんていう理由で演奏に行かなかったら、債務不履行責任が生じて損害賠償請求されても文句は言えません。病気や怪我、天災などの不可抗力じゃない限り許されません。
なので、『芸人は親の死に目に会えない』のです。
だから、私は「ああ、いいっすよ〜〜」なんて気楽なノリでボランティア演奏は引き受けないことにしています。
確かにボランティアで演奏を引き受けることもありますが、それには無料で一方的に債務負ってもいい、と思える福祉や自然保護や平和活動のような社会的意義とか、ここで無料で引き受けておいたら後で報酬のつく仕事につながるかも!みたいな打算とか(笑)、魅力的な女性に「荒木さんってかっこいい〜〜〜〜! きゃい〜ん!!」って言われたいという下心とか(爆)、そういう確固たる根拠が必要なのです!
で、さらに曲者なのが、出演料が異様に安い仕事。
これは本当に気をつけないとダメだな〜、とキャリアを積むほど思います。
福祉関係とかで予算がどうしても無いっていう場合は別なんですよ。そういう場合は社会的意義とかやりがいを優先して伺うこともありますし、行けばちゃんと仕事させてもらいます。
ここで言うのは、相手方に予算があるにも関わらず何故か引き受けちゃった交通費程度の異様に出演料の安い仕事です。
予算があるはずなのにギャラが異様に安いってことは、クライアントが演奏家を安く見積もっているってことの証明で、そういう場合は酷い扱いを受けることが多いです。
こういう相手は最初のメールとか電話でわかります。
「ああ、荒木さん? ○月○日○○時だから。よろしく。え? 曲目? そおね〜〜、演歌とかできないの? 」
みたいな感じ。もうサイアク。引き受けてしまったことを死ぬほど後悔します。
会場には控え室どころか、楽器ケースの置き場所も満足にありません。
なのに立派な花束はあったりします。
演奏後は感謝されるどころか、「演奏の場所を提供してあげたわけだからさ」とか、「札響さんとかあなたの宣伝にもなってるんでしょ?」みたいな言われよう。
安すぎる仕事=扱い悪い
普通以上の仕事=扱い良い。
これ鉄則。
いえね、つい最近こういう仕事があったのです(苦笑
若い頃は珍しくなかったのですが、久しぶりに味わいました(鬱
ま、言い出したら世の中に楽な仕事なんてないんだけどね ヽ(´▽`)ノ
音楽の仕事も例外じゃないって話です。
バイオリズムに関してはまた今度。
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バイオリズムが好調なときは仕事も上手くいくし、健康だし、面白い文章も書けるし、モテるし・・・。
自分に自信が持てて、何をやってもたいてい上手くいくような気になります。
一方バイオリズムが不調なときは、何をやっても裏目に出る確率大。こういうときはおとなしくしてるに限ります。
バイオリズムの大きな波は10年位の単位でくるような気がします。
小さい波は1月単位くらいですかね。
株で言えば、年足、月足、日足、みたいなやつですね。
さてさて、オーケストラ奏者というのは勤めているオケの業務のほかに、個人でも演奏の仕事やレッスンをしているのが普通なのですが、高バイオリズムの時にはスパンスパン仕事が入ります。
「まだまだ若い奴らには負けんで〜〜〜! がははは」となるのですが、
低バイオリズムの時は嘘のように仕事の電話が鳴りません。
こういう時は、「俺の時代は終わったな・・。」とへこみます。
で、無いよりマシと思って、異様にギャラの安いボランティアみたいな仕事を引き受けちゃったりするわけです。
すると、後から同じ日めがけてちょっとギャラのいい仕事のオファーが来て(`口´;)げはっ! となり、
さらに、狙ったようにその日にC十万の仕事が来て /()゚O゚()\ひぃー となったりします。
先に受けた仕事が優先なので泣く泣く後の仕事を断るわけです。
やはり低バイオリズムの時は無駄な抵抗はやめておとなしく本でも読んでいるに限ります。
さて、書こうと思っていたテーマと外れるのですが、話のついでにボランティア演奏について少し考えてみたいと思います。
私たちプロの演奏者がボランティアといえども演奏業務を引き受けた場合、約束した日に約束した場所に赴き、演奏という債務を履行する責任を負うものと私は解しています。
「後からもっといい仕事が入っちゃったからごめんね!」なんていう理由で演奏に行かなかったら、債務不履行責任が生じて損害賠償請求されても文句は言えません。病気や怪我、天災などの不可抗力じゃない限り許されません。
なので、『芸人は親の死に目に会えない』のです。
だから、私は「ああ、いいっすよ〜〜」なんて気楽なノリでボランティア演奏は引き受けないことにしています。
確かにボランティアで演奏を引き受けることもありますが、それには無料で一方的に債務負ってもいい、と思える福祉や自然保護や平和活動のような社会的意義とか、ここで無料で引き受けておいたら後で報酬のつく仕事につながるかも!みたいな打算とか(笑)、魅力的な女性に「荒木さんってかっこいい〜〜〜〜! きゃい〜ん!!」って言われたいという下心とか(爆)、そういう確固たる根拠が必要なのです!
で、さらに曲者なのが、出演料が異様に安い仕事。
これは本当に気をつけないとダメだな〜、とキャリアを積むほど思います。
福祉関係とかで予算がどうしても無いっていう場合は別なんですよ。そういう場合は社会的意義とかやりがいを優先して伺うこともありますし、行けばちゃんと仕事させてもらいます。
ここで言うのは、相手方に予算があるにも関わらず何故か引き受けちゃった交通費程度の異様に出演料の安い仕事です。
予算があるはずなのにギャラが異様に安いってことは、クライアントが演奏家を安く見積もっているってことの証明で、そういう場合は酷い扱いを受けることが多いです。
こういう相手は最初のメールとか電話でわかります。
「ああ、荒木さん? ○月○日○○時だから。よろしく。え? 曲目? そおね〜〜、演歌とかできないの? 」
みたいな感じ。もうサイアク。引き受けてしまったことを死ぬほど後悔します。
会場には控え室どころか、楽器ケースの置き場所も満足にありません。
なのに立派な花束はあったりします。
演奏後は感謝されるどころか、「演奏の場所を提供してあげたわけだからさ」とか、「札響さんとかあなたの宣伝にもなってるんでしょ?」みたいな言われよう。
安すぎる仕事=扱い悪い
普通以上の仕事=扱い良い。
これ鉄則。
いえね、つい最近こういう仕事があったのです(苦笑
若い頃は珍しくなかったのですが、久しぶりに味わいました(鬱
ま、言い出したら世の中に楽な仕事なんてないんだけどね ヽ(´▽`)ノ
音楽の仕事も例外じゃないって話です。
バイオリズムに関してはまた今度。
それではみなさんごきげんよう。