2008年02月26日

ソリストの心を体験する

札ブラとのコンチェルトが終わった。
演奏会の翌日は昼過ぎまで寝ていた。あまりの疲労でまる1日虚脱状態であった。

キタラの大ホールでフル編成の吹奏楽団にチェロ一本で立ち向かうというのは、こんなにエネルギーが必要なものなのか・・。
これを生業としているソリストの人というのは本当に偉い。

キタラの大ホールが舞台というのもまたプレッシャーに拍車をかけてくれた。
以前コンチェルトは市民会館で2回、地方のホールで1回やらせてもらったことがあるが、キタラは今回が初めて。舞台の中央のソリスト席に座ってみると、それはそれは空間が大きくて、いつも札響でオケの一員として見る景色とは全然違って見えた。「この広大な空間を鳴らすのか」と少し気が遠くなった。

演奏はどうだったのだろうか。こればかりは自分では何とも分からないものだが、とにかく大きな事故もなく終わった。よかったよかった。
練習から本番まで、時間的にもメンタル的にも大変であったが、終わってみると「またやりたい!」と思うものだ。
この気持ちは飲み会で絶好調に飲み過ぎて帰りに吐きまくって次の日に二日酔いに悩まされて、「も〜〜絶対に酒は飲まない!!」と誓っても、夜になると「また飲みたい!」と思うのに似ているのかもしれない・・・。

今回もまた、打ち上げは素晴らしい開放感、しかもソリストなので皆から「先生、先生」と持ち上げられて超VIP待遇。絶好調で空きっ腹にビールをしこたま流し込み、最後は三次会のカラオケボックスでオヤジ丸出し状態でギャルとデュエットを歌いまくるという”またやっちまった・・”的な幕引きであった。(この癖はいいかげん治さないといかんな・・自己嫌悪)

翌日の疲労感は飲み過ぎとカラオケによるものが大半だったのかもしれない・・。

ご来場の皆さま、ありがとうございました。
そして札ブラのみなさま、親切にしていただいてありがとうございました。  

Posted by arakihitoshi at 12:35Comments(4) │ │音楽 

2008年02月14日

ソリストの心を想像する

札幌ブラスバンド(札ブラ)とのコンチェルトの本番が近づいてきた。
演奏会案内コーナー」にも書いたが、ヨハン・デ・メイという作曲家が書いた「独奏チェロとウィンドオーケストラのための”カサノヴァ”」という曲を演奏する。
編曲物でははく、チェロとブラスバンドのためのオリジナル曲である。
なんでまた、”カサノヴァ”なのか・・、そしてなんでまた、よりによって私なのか・・。どちらにせよカサノヴァには憧れていた。男の中の男、いや、男の代表。権化といってもよい存在だと思う。演奏できるのは全国に100万人の愛人を持つ私にとっても名誉なことである。


先週3回目の札ブラとの合わせ練習があったのだが、妻(札響ヴィオラ)に聴いてもらった。「ん〜、(チェロの)音量自体は出てるんだけどね・・。何ていうか、音が立ってないというか映えてないというか・・」という感想。
「言ってくれるじゃね〜か、ゴルァ」と思ったが、言われてみると思い当たることは多い。
日常オーケストラの中で主に弾いていると、どうしても「目立とう」という気持ちよりも「周囲と溶けよう」という気持ちが勝って自然とそういう弾き方になっていく。

さらに詳しく妻の意見を聞いてみると、
「少々汚くてもいいからたまにガリっと強い音を聴かせてくれないと欲求不満になる」とのこと。
要するに駒寄りで弾け、ということなのだが、弦楽器は弦を本体の上で支えている駒に近い方に弓を当てて弾くと強く張った音がする。逆に指板に近い方で弾くと柔らかい音がする。
私もレッスンで生徒に「フォルテは駒寄りで、ピアノは指板寄りで!!」と口をすっぱくして言ってはいるが、言うは易しなこともよ〜く知っている。
頭では分かっていてもうっかりフォルテを指板寄りで弾いていたり、あるいは駒寄りで弾いているつもりでもなっていなかったりということはよくある。
アムステルダムで活躍する国際的な日本人演奏家の方が「コンセルトヘボウの人たちもそうなってる」と言っているのを聞いたことがある。
コンセルトヘボウですらそうなのだ。少し安心する・・。


世の中の優秀なソリストたちは、確かに「少々汚くてもたまにガリっとした音」を出している。結果的に輝かしく張った音がオーケストラを突き抜けて聴衆に届く。
ではそういう弾き方が全てにおいて絶対的に正しいかというとそうではない。例えばオーケストラの中でそれをやりすぎると周囲と協調せずに煙たがられ、終いには”スーパーソリスト”などと陰口を叩かれ嫌われ者になるのは必至である(笑)。
物理的な奏法だけではなく、演奏に対する時の気持ちが音に影響する。結果それが奏法にも影響するという相関関係にあると思う。要は場を読んでバランスを保つということだろう。

さて、私にとっての大きな演奏会では、先月はノンノン・マリア弦楽四重奏団の演奏会があり、今月はコンチェルトのソロ。そしてオーケストラの演奏会は日常業務として続いている。
自分なりの演奏上のロールモデルを作るには非常に良い機会である。
気持ちの部分を表にするとだいたいこんなところである。

『オーケストラで弾く時』
「引き立て役ですから・・・、いえいえ、気にしないでください。もちろん一生懸命キッチリと弾きますよ。仕事ですからね。」というプライドだけでは済まない複雑な心境。

『室内楽で弾く時』
「僕たち仲間だよね。何事も相談して決めようね。足並み揃えていこうね。”あいつら地味だけどいい仕事してるよな”なんて言われるカルテットになりたいよね」という『1に平等2に平等、3、4がなくて5に謙虚』というコミュニズムを髣髴とさせる人工的な心境。

『コンチェルトのソロを弾く時』
「とにかく俺が主役だから。俺は上手いしカッコイイし、そういう自分が好きだし、たぶん皆も俺のこと好きだと思うよ。こうして演奏会に来てくれてるわけだからさ」という自信全開モード。
勘違いでも自己暗示でも何でもいいから”俺はオマエ達とは違うんだ!”とでも思わないとあの場所で弾くのはとても無理。


どれに転んでも辛いじゃん!
だんだん鬱になってきたから今日はこのへんにしておこう・・。  
Posted by arakihitoshi at 00:35Comments(4) │ │音楽 

2008年02月09日

おっぱっぴーに思う

今日、職場の昼休みに同僚たちと食事中の出来事である。
TVの話題になり、私が「”おっぱっぴー”を見たことがない」と言ったら皆にのけ反られた。

『そんなのカンケーね〜、おっぱっぴ〜〜♪』とかいうやつである。家で子供が真似してるから知っている。早稲田大学出身の芸人が裸体でやっているのも耳で聞いて知っている。しかし見たことはない。

『♪ライ・ライ・ライライライ』とかいうやつも知らなかった。
ちなみに『欧米か!』も知らない。
多分見ても流れを把握していないので、意味も分からず面白いとも思わないと思う。

先日雪祭りに行ったら”おっぱっぴー”の雪像の前で写真を撮っている人が沢山いた。こういうナンセンス(見たことないけど、たぶんナンセンスなんでしょう)が大流行する背景には、大正末期や昭和初期にエログロナンセンスが流行したように、漠然とした時代不安があるのかもしれない。・・・と一応もっともらしいコメントを加えてみる。


”おっぱっぴー”を見たことがないと言った私に対して同僚たちは、「荒木テレビみないの?」と言うのだが、私だってテレビくらいは見る。
ただし、最近の7時代とか8時代にやっているような、芸能人が沢山雛壇に並んで、雑学問題をゲラゲラ笑ながら解答を競っている番組は好きではない。
仮に子供たちが食後にそういう番組を見ていても、問答無用でNHKニュースにチャンネルを変える。これぞ日本の正しい父親像である。
ニッポンの正しい父親を取合えずヤっている私が見るのは、「7時のNHKニュース」、「クローズアップ現代」、「大河ドラマ」、「その時歴史が動いた」、深夜には「ニュース23」か「ワールドビジネスサテライト」。たまに息抜きで、「司馬遼太郎と城を歩く」。

これぞ男の生きる道である。2ch風に言うと「オヤジケテーイ」である。うーんマンダム・・・。


そういえば昨日行った雪祭りはさすがに自衛隊が大幅に撤収したので雪像こそ以前より迫力に欠けたが、出店が沢山出て祭りらしくて楽しかった。
「第11連隊戦車大隊制作」などと書かれた大迫力の城の雪像にひたすら圧倒される雪祭りも良かったが、もう少し商売ッ毛があった方が楽しいのに・・、とも思った。
特に真駒内会場は共産圏をも髣髴とさせるストイックな趣であった。
大迫力の雪像が見られなくなったのは淋しいが、これはこれで良かったのかもしれない。
  
Posted by arakihitoshi at 00:09Comments(3) │ │雑感 

2008年02月07日

芸術脳とか言う。

本当に久しぶりの更新である。こんなに更新しなかったのはブログ開設以来・・、いや、HP開設以来ではなかろうか。
1ヶ月半ぶりにブログを置いてあるライブドアのページにアクセスしたら、「ようこそゲストさん」と言われてしまった・・。「オマエ誰だっけ」(意訳)ということか。


この2ヶ月間はただでさえ札響の仕事が忙しい時期に加え、家の新築にまつわる諸々の雑事で、私の人生でも有数のテンパった状態であった。

しかし、色々と社会勉強になった。
家の新築にまつわる諸々の雑事とは、工務店や設計士との打ちあわせに始り、銀行ローンの手続き各種、以前住んでいたマンションの売買、借家からの引っ越し、それと以前も書いたが登記各種などである。

薄々感じてはいたが、通常は銀行や不動産屋などに言われるがままに行うしかないこれら雑多な作業には、非常に無駄が多いことに改めて気が付いた。
「念のため」という本来不必要な理由のために、しなくても良い作業に振り回され、払わなくても良いお金を払っている場合が少なからずある。
一例を挙げると、銀行ローンの手続きのなかで、家が建っている土地(この土地はローンの担保になる)の地目が”山林”になっているので”宅地”に変更して欲しいと銀行が言う。地目を変更するには当然そのための登記が必要になり、司法書士に代行を依頼すれば数万円の手数料が必要になる。
しかし、地目が”山林”だろうと””原野”だろうと住宅が建っていればそれは”宅地”である。
その旨告げると銀行は「分かりました。なんとかします」と言う。「なんとかなるなら最初から言うなよ」、と思うのだが・・。

実は昨年9月に1級小型船舶免許を取得してからすっかり受験勉強が面白くなり、家の建てかえなどもあり、宅地建物取引主任者(宅建)の資格を取るべく勉強を初めていた。それが今回とても役にたった。
めざせ資格マニアへの道! と笑われそうではあるが・・。


しかしながら、今回はプライベートとはいえ、いささか忙しすぎた。
お金や契約などに関る実社会的な事に頭を使いすぎるのは、音楽を演奏したり文章を書いたりするクリエィティブというと偉そうだが、少なくとも形而上的な脳の活動に必ずしもプラスにはならないかもしれない。
芸術脳と実務脳の非対称性について痛感したのは今回が始めてではない。数年前の札響経営破綻の折り、休眠していた左脳をフル活動させて財務諸表を読み込んだり、楽員参加の企画会議や理事さんたちとの会合、マスコミ対策に追われたあの日々も、演奏する前に実務脳から芸術脳への切り替え作業を行う必要があった。

だがしかし、”過ぎ”は確かに良くないが、バランスさえ保てば演奏にとっても良い刺激になる・・、と信じることにしよう。
実務家が音楽に触れて豊かな人生を送るように、音楽家も実務に触れて充実した人生を送りたいものだ。  
Posted by arakihitoshi at 00:11Comments(4) │ │雑感 
#more#more#more/div#more/div