2009年07月26日

環境ホルモンの影響でオケが弱っちくなる?

PMFアカデミーオケを聴いてきた。
ティルソントーマスで自身の作曲によるブラスアンサンブルの曲とマラ5。
チケットは完売だったそうで、kitaraは満席に近かった。

ブラスアンサンブルの曲はもちろん初めて聴く曲だが、
コラール風の第1部とジャズ風の弟2部からなっていて、緊張感のある和音が特徴的な綺麗な曲だった。
メインのマラ5は18型のPMFならではの巨大編成での演奏だった。
視覚的にはオーケストラがkitaraの舞台から溢れんばかりだった。

演奏は"今風"というのだろうか、全体的に卒なくとても綺麗にまとまってて優等生的に上手。
管楽器、とくに金管楽器はミスもなく素晴らしかった。
トランペットの1番は女の子だったが、音量も豊かでずーっと男だと思って聴いていた。

さて、綺麗にまとまってるのはいいのだが、
弦楽器、音小さっ!(←今風の表現)
18型でしょ? ってことは18人、16人、14人、12人、10人で・・、計70人!(でかっ! ←今風)。
うーん、と考え込んでしまった。
70人でこの音量はどうかな・・と思った。なんつーか、技術的な問題というより、表現欲求というか・・、環境ホルモン? とか考えてしまった。
弾きっ振りがいいのは、ヴァイオリンに3人、ヴィオラ1人、チェロ3人、コントラバス4人、終了。みたいな感じでとにかく全体的におとなしい。

これはPMFだけの問題じゃなくて、もう全世界的な問題である。
静かそうな女のコ(全員じゃないけど)がズラーっていう光景はもうあっちこっちで見慣れたのだが、数少ない男のコにいたっても精子の数が半分になっちゃった感が否めない。(全員じゃないけど)
PMFは学生オケだけど、世界中のプロオケにもこの傾向は静かに忍び寄っていると思う。
昔のシュヴァルベとかボルヴィツキーとかツェラーみたいなエグいおっさん達がトグロを巻いてた頃のベルリン・フィルが懐かしい。
昔はエグいおっさん奏者はベルリン・フィルじゃなくても、どこのオケにも沢山いた。
エグいおっさん達は仮に技術的には問題大ありだったとしても、”聴く価値”のある演奏をしてた・・・、と思うのは無い物ねだりの感傷論なのだろうか。
私が20代の頃も、中堅以上の奏者たちに「最近の若い連中はおとなしい」と言われたものだが、現況は間違いなくそれ以上だと思う。

面白いエピソードがあるのだが、私が札響にエキストラで呼んでもらえるようになった頃(四半世紀くらい前)、ある指揮者がチェロパートを捕まえて、「そこ、ズレてますので・・」というようなことを言ったのにたいして、すかさずチェロのエグいおっさんの一人が、「ズレと見るか味と見るかだな!」とか言って指揮者の言うことにまったく取合っていないのを子供心に(笑)よく覚えている。
あるいは、練習中若い指揮者に「まあ、そんなに神経質になるな」とか言ったり、凄かったわけだが、ああいうのはオケ弾きとして問題もあるかもしれないが、かっこいい側面も大いにあったと今になってしみじみと思う。
最近あの頃の風景が無性に懐かしい。

なんでもかんでも指揮者の言うことを聞けばいいというものではない。
指揮者の要求と、自分の演奏者としての表現欲求を常に衡量するバランス感覚が、オケの自発的な音を作り出すために必要な要件だと思う。


そんな風にエグくてバンカラなおっさんやお兄さん奏者達の存在も今は昔。
私も含め男が弱くなって昔のエグいおっさん達が絶滅しかかっているのは、全職業的、全人類的な傾向なんだと思う。オケの舞台はそれを端的に示しているだけだ。
Y染色体がもうすぐ無くなるとか、
現代の20代の精子は40代の半分だ、とか(大いに関係あると思う、音楽的に。)
そもそも精子の数なんて何億もいらなくて、1個か2個あれば充分なんだろうか、
狩猟や戦争もないし、ちょっと手をあげればDVだとか、
ちょっと触ればセクハラだ、とか。
電車に乗れば痴漢の冤罪とか、女性車両より男専用の痴漢免責車両を作って欲しいとか、
いっそ、男なんて弱い方がいいんだろうか。

そしてこのまま人類は滅びてしまうんだろうか・・とか。

そんなことを考えながら聴いた演奏会であった。


あ!、でも上手だったよ。PMF生たち。 よく頑張ったね! ヾ(^^ )ヨシヨシ


それではみなさんごきげんよう。
  

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2009年07月16日

嘘いろいろ

*一部、映画「ディア・ドクター」のネタバレにあたる可能性があります。


数日前、市内の国道を車で走行中に面白い光景に出会った。
片側三車線の大きな国道だが、自動車メーカーが集まって存在する地帯がある。
その地帯で黄色い交通安全の旗を持った人がズラっと並んで立っている。
よく見ると、自動車メーカーの人たちがそれぞれ自分たちの店舗の前に並んでいるようだ。
Tヨタ、Nッサン、Hンダ、Sズキ、Mツダ、そしてLクサス。
すべてのディーラーが揃っていた。
地区の商店街の社会奉仕活動に狩り出された雰囲気に見えたが、面白かったのは彼らの並んで立っている様子。
それぞれの会社の社風というか、いやむしろ社格と言ってもいいくらいの違いと差を観察することができた。

一番イケてなかった会社は・・、書かないけど、この会社の車は買いたくないと思った。
管理職風のおじさんは照れ隠しなのか、「いや〜、トホホですな・・」みたいな感じで立ち話してるし、営業風の兄ちゃんも旗を挙げるでもなく中途半端に支えて、ダラダラよそ見してるし。「やってらんね〜」って声が聞えてきそうだった。
すごくかっこ悪かった。

際だって素晴らしかったのがLクサス。
あの高級志向は少し鼻につくが、さすがホテル仕込みの接客を売りにするだけのことはあると思った。
身なりも正しく、背筋も真っ直ぐ。工場の人たちもつなぎ服をビシッと着て、皆作り物っぽいけどプロっぽい笑顔で旗の高さも揃えて整列していた。
商店街から支給されたであろう安っぽい黄色い帽子まであつらえたかの様に立派に見えた。
すごくかっこよかったし、見ているこちらの規範意識まで高まった気がした。


さて、話しは変わるが、札響は激忙の7月。
台風の隙間のような連休があったので久しぶりに映画のはしごをした。(と言っても3本見ただけだけど)
今回は、西川美和脚本・監督、笑福亭鶴瓶主演の「ディア・ドクター」が面白かった。
最近話題の西川美和監督、1974年生れって言うから35歳くらい。
2週間前の「週刊現代」の巻頭グラビアに登場していたが、恐ろしく美人だ。

一体どこのどいつがこういう愛らしくて妖艶で知性的で性格良さそうで才能溢れる超美人を”落とす”んだろう?ってついつい考えてしまう・・。
きっと六本木ヒルズとかにオフィスを構えるIT企業の若い社長とかが落とすんだろうか・・。
そいつはやっぱりニューヨークに月に一度とか出張に行って、飛行機は当然ファーストクラスかビジネスクラスなんだろうか・・・。
そんで、西麻布の超高級マンションの最上階に住んでるんだろうか・・・。
車は900万円くらいするでっかいベンツで、休日は赤いフェラーリに乗るんだろうか・・・。
そんで、デートとかで「あ、いけない!。美和さんと話していると楽しくて、つい時間が経つのを忘れてしまいます・・」とか言いながらロレックスの腕時計をチラッと見たりするんだろうか・・。

あ〜〜〜、面白くね〜〜〜〜。
どーせ俺は、ETCの休日割引に当って車の中で「よっしゃ〜〜!」とか言いながらガッツポーズしてる超庶民だよ。
吉野屋の50円割引の日に当って「らっき〜〜!」とか言いながらみそ汁追加注文しちゃう貧乏人だよ。 文句あっか!


話しが外れた。
で、ディア・ドクターは本当に面白かった。
予告編から分かるように、鶴瓶が田舎のニセ医者で登場するのだが、ゲンナリするようなヒューマンドラマではなく、人の世の嘘とか、人間の弱さなんかが細やかに上手に描かれてて、この監督の前作「ゆれる」も見たけど、脚本もこなしているわけだから、やっぱり凄い人だと思う。
前作「ゆれる」も同様に、人の世の嘘とか人の弱さがテーマだと思った。
ホンモノの医者よりも医者らしい鶴瓶の悲しくも可笑しいニセ医者にはとっても感情移入できた。

そんなわけで、”嘘”については普段からいろいろと考えることが多い私は、この二作はかなりお気に入りの映画である。

医者じゃないのに「医者です」とか、
「全部嘘だったのね!」とか、
世の中にはついていい嘘と悪い嘘があるんだよ、とか、
嘘も方便とか、
罪な嘘、優しい嘘、悲しい嘘、愉快な嘘、
上手な嘘、下手な嘘、
すぐバレる嘘、
「墓場まで持っていく」っていう嘘、
いい奴を”演じる”とか、
「嘘でもいいからしっかり抱いて!」(by シンデレラハネムーン)とか、

嘘は私たちの人生を豊かにしてくれる(笑)。
みんなが今回の大河ドラマの直江某みたいな純粋真っ直ぐ君はつまらない。今回の大河は途中で見るのを辞めてしまった。
あんな正直者で本音だけで世の中渡っている戦国武将は"ヘン"だ。

本音と建前の使い分けが上手に出来るのが”オトナ”だと思う。これが出来ない人は年齢を重ねてても妙に子供っぽい。周囲からも大人扱いされない。
じゃあ、建前っていうのは嘘に含まれる訳?
まあ、広い意味での嘘だんだろうな。と思う。


そして、さっきの自動車ディーラーの話しに戻るのである。
イケてないと言った会社の人たちの態度は正直だけど子供。
Lクサスは嘘つきだけどオトナ。
私は断然オトナがいいね。

これでいいのだ。

  
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2009年07月07日

PMF20周年 アニバーサリーオケ

PMF20周年アニバーサリーオーケストラを聴いてきた。
このオケは、PMF20年間の卒業生たちで、世界のオケに”就職”した人たちで、今回の演奏会のために構成された特別編成オケである。
今日のために、それこそ世界中のオケから集まってきたのだ。

pmf20国際音楽祭で編成される一期一会オーケストラにありがちな独特なパワーとモチベーションで、地から沸き上がるような力のある素晴らしい演奏だった。
特に管楽器はダニエル・マツカワさん始め、20年間の有名人達で構成されたと思われ、技術的にも最高だった。
弦楽器も、完全に仕事抜きモード全開のフルパワー。まさに底鳴りくんであった。
「普段地元のオケでもそのテンションで弾いてたらすごいよ!」と思ったりもしたが(笑)、PMF20周年に相応しい熱い演奏を堪能させてもらった。

プログラムのメインはシューマンの交響曲第2番だった。
この曲は私も参加させてもらった第1回PMFでバーンスタインが指揮して演奏した曲だ。
客席で聴いていても本当に懐かしかった。

そして昨日は札響によるPMFウェルカムコンサートだった。
札響の楽員とPMFアカデミーの学生たちとの合同演奏会だった(R・シュトラウス/英雄の生涯)。
アカデミー生達も各国からオーディションで選ばれて集まってきているが、中には素晴らしく上手なコもいるが、大多数は上手めの音大生レベル。
でもこれは当然で、これでいいのである。
PMFはソリストを育てる音楽祭ではなくて、オーケストラ奏者を育てるということに目的を特化した音楽祭なのだから。そこがPMFの世界における大いなる存在意義なんだと思う。
彼らもこれからクソ度胸を磨いて、血の小便が出るほど過酷なプロオケのオーディションを勝ち抜いてほしい。

で、今年は札響とPMFの学生たちがプルトを組んで弾いた。
学生といえども相手はガイジン!(笑)。
なんつーか、すっげー余裕ありまくりの態度で、ネイティブな英語でこられると、純度100%のニッポン人としては簡単にひるんでしまう・・(苦笑
でも弾き始めると相手の正体が分かるから、「なんだ・・、ただの音大生じゃん・・。大人相手に余裕かましてんじゃねーぞ! ゴルァ!」と心の中で思うのである。(心の中でね)
西洋人の奏者と接するといつも思うけど、内心ビビってても彼らは意地でも「オ〜 イェ〜イ エンジョ〜イ」の態度を崩さない。子供でもそう。これはもう一種の芸と言ってもいいと思う。
あの雰囲気に飲まれない鈍感力を養わねば・・・。

そんなわけで、PMFの仕事はいつもの10倍くらい疲れるのであるが(英語もしゃべらないといけないしね)、練習場の芸術の森で収穫もあった。
例のアニバーサリーオケ。今回は2000年以降の修了生が中心で編成されたそうだが、私と同じ第1回目の修了生4人ほどいた。
彼らと20年ぶりの再開を果たすことができた。
一人は日本人でクリーブランド管の”美人”ヴァイオリニスト。
当時、期間中とても仲良くしていたので懐かしい話しに花が咲いた。今日の演奏会で彼女を探したら、なんとコンマスをやってた。驚いた。

第1回修了生でチェロの人もいるので「呼んでくるーー!」という彼女に、「あ、いい。いいから!!」と言うのもつかの間・・・。
だってさ、ガイジンでしょ〜〜〜。
だいたいこうなるのだ。

ガイジン氏 ハ〜〜イ! 
ワタシ   ハ〜〜イ!
ガイジン氏 ロング タイム ノー シー!
ワタシ   ロング タイム ノー シー!
ガイジン氏 ・・・・
ワタシ   ・・・・
ガイジン氏 ・・・・・・・・・・・・
ワタシ   ・・・・・・・・・・・・
ガイジン氏 シー ユー
ワタシ   シー ユー




さて、PMFと札響が不仲なんていう話しはメディアでも何度も取り上げられてきた。
つい数日前の道新にもそんな話しが出ていた。
私自身、修了生でありながら、PMFに対して否定的な考えをずっと持ちつづけていた。
それは、予算の問題だったり、PMF期間中はとにかくPMF最優先で札響は芸術の森の練習場まで追われてしまったり、もともとやっていた7月定期を廃止せざるを得なくなったり、何より悲しかったのがPMFの事務方の方がメディアで『札響の名で世界の学生を呼べますか?』みたいなことを公然と語っていたり(仮にそうだとしてもそれを言ったらお終い。今にして思えば本当にごくごく一部の方の発言だった思う。ほとんどの方は頭が下がるほど献身的)、など札響が「メンツを潰された」と感じるに足る状況があったと思う。

2001年くらいまでは、札響にとってPMFが来たことによるデメリットばかりでメリットは少なかった。
きっと札響側にも硬直的な態度とかいろいろ反省すべき点はあったのかもしれないが。

関係各位のご努力の賜物で、最近は合同演奏会を毎年やるくらい親密な関係になった。
私もこの機会に宗旨変えして、PMF肯定論者になろうかと思う(笑)。

実は宗旨変えはここ数年のPMFや札響を取り巻く札幌の音楽事情の変化や、自分の心の流れだったりしたが、今晩の演奏会も宗旨変えを裏づけてくれた。
シューマンも良かったが、終演後、ダニエルマツカワさんの指揮で有志10名ほどで、ジークフリート牧歌のサービス演奏がステージ上であった。
例のコンマスも1stヴァイオリンで出演していた。

演奏会が終わって、お客も帰りかけている中、おもむろに演奏は始まった。
会場は水を打ったように静まり返った。みな、それぞれの場所で演奏に聴きいっていた。
技術と心が調和した本当に美しいジークフリート牧歌だった。
西洋音楽が素晴らしくて、それを紡ぎだす演奏者に畏敬の念を感じて、そういう人間に自分もなりたくてこの道に進んで頑張っているわけだが、長年やっていると業界の表も裏も知りすぎてピュアな気持ちのままでいることは難しい。きっと世界各地のプロオケでやっているPMFアニバーサリーの彼らもそうだと思う。
しかしながら昨晩は「音楽の素晴らしさ」なんていう薄っぺらい表現ではとても収まりきらない気持ちを思い出させてくれるような演奏だった。
演奏している彼らは若い頃に訪れた札幌に再び来て、一期一会オケで弾いている。彼らの精神状態は容易に想像できる。奇跡的とまでは言わないが、そうした状況で生れた特別な演奏だったのだと思う。ちょっと羨ましくもあった。

そう。これでいいのかもしれない。
みんな公には書けない言えない事情とか思いとか矛盾とかいろいろあっても、そうやって進んでいくなかでいいものを作っていくしかないし、そういう姿でオッケーなのかもしれない。

「PMFと札響との関係」の未来については、やはりPMF側の音楽監督がたまには札響を振って欲しいかな・・。(しつこいようだけど)
以前、一度だけエッシェンバッハさんが札響を振ってくれたことがあったが(1994年/ベートーヴェン交響曲第7番ほか)、あの演奏会は本当に思い出深い演奏会になった。
PMFと札響の蜜月に向かって、夢を語っていい時期にそろそろ来ていると思った。


ふっ、今日は懐かしさに駆られてちょっとおセンチなノリになっちまったぜ・・・(照)。

それではみなさんごきげんよう。
  
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2009年07月02日

ラスト オーケストラサムライ 2

さて、今日はまずこの動画をごらんください。

どうです? これ。
私は激しく言いたい。
「ヴァイオリンは俺が弾くからおまえは部屋を掃除しろ!」と。

そしてこの動画。


「むやみに触ると・・、セクハラですよ! うふ」
・・・・ なにが「うふ」じゃ! どあほ!! 誰がおまえなんか触るか!!
いや。触るだけならちょっと触ってみたいかな・・。

最近のロボット工学はおかしな方向に向かってないか!

そもそもロボットとはこの様な姿であるべきである!。
robita
手塚治虫「火の鳥」復活編 より

ロボットとはこのロビタの様な姿で、掃除や選択やご飯を作ったり、危険な任務についたり、力仕事をしたり・・・。
そして人間様はクリエイティブな作業に専念できるのである。

しかるに、最近のロボット共ときたら、満足にメシも作れないくせにヴァイオリンを弾くだの、「セクハラですよ! うっふ〜〜ん」とか言って色気づいて人間の領域に入り込んでこようとする。 
われわれが欲しいロボットはそういうロボットではないのである。
いや、少しはあ〜んなことやこ〜んなことを妄想するロボットも欲しいのかもしれないが、基本的には違うのである。
もっとメカメカっちい、いかにもロボットしてるロボットがいいのである。

ヴァイオリンロボットは置いておいたとしても、今の現実社会でも機械化によって生身の演奏家の活動領域が犯されている現状もある。
記憶に新しいところでは、2007年のブロードウェイのミュージシャンなどで作るステージユニオンによる大規模なストライキだ。ステージバンドの雇用人数をめぐる労使紛争だった。(詳しくはググってちょ)
身近なところでも、阪急電鉄による宝塚歌劇オーケストラの大幅な人員削減などがあった。
雇用者側には経営上の、被雇用者側には生活の、それぞれ主張があるのは分かる。しかし生演奏をコンピューターによる打ち込みやシンセサイザーに置き換えることによる音楽的損失に異論を唱える人はいないはずだ。


前置きが長くなったが、季刊「ゴーシュ」連載の”クラヲタへの道”、3月発売号のネット掲載解禁日になった。
この巻のネタは上記のようなロボット問題である。
前回”ラスト・オーケストラサムライ”同様、小説仕立てである。
それでは、長々しい前置きの背景が通奏低音的にあることをお含みおきいただいた上で、お読みください。ちなみにモデルは札響のヴァイオリニスト福井岳雄さんである(爆)。


『ラスト オーケストラサムライ 2 』

20××年某日。ロボット法が施行されて10年。

俺は1960年式ビートルをキタラの楽屋口に横づけした。空冷式のけたたましいエンジン音が中島公園の静寂を引き裂いた。この音に眉をしかめる連中もいるが、かまうことはない。

トンダ製の車が駐車場の線に沿って整然と並んでいる。「どれもこれも同じような形をしやがって・・・」。これを見ると胸が悪くなる。
俺はビートルを横づけしたままヴァイオリンを持って楽屋口の階段を登り、ドアを足で蹴り開けた。警備員は驚きもせず無表情に俺を眺めると、「おはようございます。よい天気ですね。」と無機質な笑みを浮かべた。

出演者ラウンジでは楽員たちが所定の場所でウォーミングアップをしている。俺の存在を認識すると楽器を弾く手を止め、「おはようございます」といんぎんに挨拶してきやがる。「なにが『オハヨウゴザイマス』だ。いっぱしの口ききやがって」。俺はくわえていた煙草を楽員のひとりめがけて投げつけた。火の付いた煙草はそいつの顔に命中したが、かまうことはない。その楽員は何事もなかったように再びウォーミングアップに戻った。

21世紀のごく早い時期。自動車メーカーのトンダは世界に先がけて、トランペットを吹くロボットを開発した。最初は皆、楽器ロイドをバカにしていた。俺もそうだった。間違わない演奏と芸術性の高い演奏はまったく別の次元の話しだ。しかし、トンダ主催のある演奏会で「展覧会の絵」のトランペットを楽器ロボに吹かせる、という企画が大当たりし、それをきっかけにオーケストラ業界は、楽員を楽器ロイドに入れ替えていったのだ。人件費ばかりかさみ何かとやっかいな人間の楽員よりロボットの方がいいというわけだ。

しかし、ある時期を境にオーケストラの客離れが始まった。完璧過ぎる楽器ロイドたちの演奏は退屈で眠気を誘う・・、と聴衆は言い出した。まったく勝手なものだ。今ごろ気がついても遅すぎる。人間は俺ひとりになっちまったぜ。

かつてこの舞台は楽員たちの人間臭いドラマで溢れていた。悲喜交々、演奏の出来に一喜一憂したり、そんな日常を共有してこそオーケストラは成長するのだ。俺はそんな職場が好きだった・・。
おっと、おセンチな思い出話はここまでだ。ロボ公に聞かせても分かるわけがない。

俺は最後の人間様だ。ロボ公には真似できない”間違い”をするのが俺の仕事だ。
開演を告げるボーカロイドのアナウンスが流れた。俺はロボ公どもに混じってステージに出た。
今日のプログラムは「フィガロの結婚」からだ。楽譜はピアニッシモで始まるが、かまうことはない。指揮ロイドが振り下ろす棒より一瞬早く、俺は渾身のフォルテッシモで弾き始めた。
  
Posted by arakihitoshi at 22:56Comments(4)TrackBack(0)│ │『クラヲタへの道』 
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