2010年08月30日

マーラー・イヤーでタイムスリップ

livedoor blogのログイン・ページに最近サブカル系のニュースサイトへのリンクが表示されるんです。
で、ここ数日声優の井上麻里奈タソが『電車男』のオープニングでもすっかりおなじみになった『月面兎兵器ミーナ』のコスプレしてる画像が出てて、どうしてもそっちをクリックしちゃうんですな。
そんなわけでブログの更新がままなりませんでしたヽ(´▽`)ノ
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9月の定期はマーラーの3番交響曲です。
マーラーの交響曲は全部やったことがあると思っていたのですが、よく考えてみると3番は初めてでした。
3番は長くて副題も付いてないから地味で冗長な存在のように扱われているけど、実はとても素晴らしい曲です。
昔、アバト/ベルリン・フィルがサントリーでこの曲やった時、わざわざ東京まで聴きにいきました。本当によい曲です。
特に弦楽合奏で始まる第6楽章は精神性がとても高くて、長い3番交響曲はこの楽章のためにあると言ってもいいくらいです。
でも、長いといっても1楽章と6楽章だけが長いのであって、あとの楽章は普通です。
そう思って聴くとたいして長くありません。
それぞれの楽章に当初マーラーが付けていた副題が個別についていて、それを知っておくと理解の助けになります。
詳しくはWikなどで調べてちょ。
マーラー 交響曲第3番

おすすめの予習用のCD(もしくはレコード)には、クーベリック指揮/バイエルン放送響のものをあげておきます。
マーラー:交響曲第3番&第10番
いろいろ名演はありますが、まずは押さえておきたい演奏です。アバドたちが全集を出すまでは、マーラーの交響曲といえばクーベリックでした。

さて、今年はマーラー生誕150年でマーラー・イヤーっていうことになってます。
札響もめったに演奏されない3番と7番を定期のラインナップにあげてます。
でも来年は没後150年ってことで、またマーラー・イヤーになるのでしょうか・・? そのへんは謎です。

さて、マーラーと言えば、あの1980年代後半の熱狂的なマーラー・ブームを思い出します。
ちょうど世の中がレコードからCDに切り替わって、長大なマーラーやブルックナーの交響曲が1枚か2枚のCDに収まってしまう、という物理的な理由もありました。
バーンスタインやアバドやインバルたちが次々に全集を録音しました。
ブームの理由として確かにそれもありました。

しかし、なんといってもあの時代の空気が、マーラーの作品が持っている退廃的で厭世的な雰囲気にマッチしていたのが最大の理由でしょう。
マーラーの音楽には”世紀末”という言葉がとてもよく似合います。
1980年代後半から1990年代初めのバブル期の日本の、腐りかけた果物を貪るような刹那的でイン・モラルな世相にBGMを付けるとしたら、マーラーの交響曲はあまりにも似合っていました。

当時は日本マネーに吸引されて、サントリーホールで毎晩の様に世界の著名なオーケストラが来日公演をしていました。
演目はやはりマーラーとブルックナーが多かったです。在京オケの定期でも後期ロマン派はよく取り上げられていました。(今は編成が大きくて演奏に経費のかさむ後期ロマン派の曲は当時より少ないです)
大学生だった私もバイトで稼いだ金で演奏会に通いました。

今だったらおよそあり得ない紫色のジャケットを着て、オンナノコとサントリーホールで外来オケの演奏会を聴いて、夜でも昼のように明るい六本木のアマンド前交差点までフラフラ歩いて、食事もできるプールバーなんかに行って、ビールは”モツル”、お酒はジン、そんで、あ〜〜〜んなことやこ〜〜〜〜んなことを・・・、
というのが当時クラシックを聴くようなインテリゲンチャなヤングのお決まりのデート・コースだったと思います。(あくまで一般論として)

どーせ1999年7月に大魔王が降りてきて世界は滅びるんだからさ、せいぜい今のうちに楽しめばいいんじゃない?ヽ(´▽`)ノ
っていう終末観は、あの熱狂的な好景気を生んだ原因として、プラザ合意がどうのっていう経済学的な要素に勝るとも劣らない理由だったのではないでしょうか。
ま、それはともかく、マーラーやエゴン・シーレやオットー・ワグナーやクリムトたちが生きていた世紀末の終末観に似たものを、当時の人々は感じていたのではないかと思わせるものがありました。
そんな中でのマーラー・ブームでした。とにかくすごかった。
なにしろ、トレンディードラマにだって、ラジオの深夜番組にだってマーラーがかかっていたんですから。

で、現代2010年のマーラー・イヤー。
ノストラダムスの言ってた大魔王も来なかったし、第3次世界大戦もなかったし、危機といえば環境問題ですかね。
当然ながら紫色の左右非対称なジャケットもだれも着てません。
プールバーもディスコもありません。投資よりも貯蓄ですね。
時代が変わりましたね〜〜。

そういう現代の私たちに、マーラーの音楽はどう聴こえるのでしょうか。
”世紀末は夢のあと”のように覚めて聴こえるんでしょうか。
それとも何か新しい景色が見えるんでしょうか。
そんなアプローチでもぜひ聴いてみたいと思っています。


それではみなさん、
ぐじんぶるとだしぼじゃ! (o^-')b
  

Posted by arakihitoshi at 02:19Comments(6)TrackBack(0)

2010年08月17日

忘れられない言葉

毎日蒸しますな〜〜〜
こう不快指数が高いと、なにもかも捨てて南の島に行きたくなりますな〜。
え? そんなことはない?
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誰しも、忘れられない言葉 というものを持っていると思う。
遠い昔に出会った言葉、数え切れないほどの言葉と出会っているはずなのに
その言葉だけは、記憶の片隅にまるで根を張ったように
じっとわたしの頭の中に棲みついている。
そして、ときどき忽然と顔をのぞかせるのだ。




あれは高校1年生の冬ころだった。
高校へはバスと地下鉄を乗り継いで家から40分ほどの通学路だった。
バスから地下鉄、地下鉄からバス、
私の高校は男子校だったので、停留所が一つ先の女子高の生徒たちと一緒に乗るこのバスが、若かった私には特別なひと時だった。
彼女たちの髪から僅かにシャンプーの匂いが香った。名残り惜しい気持ちを断ち切ってバスを降りたものだ。
そこには大きな交差点がある。交差点の角にこの冬は近所の消防署が看板を立てていた。
「火の用心」
と赤い字で書かれたその横に、いろいろな国の言葉で「火の用心」が並んで書いてあった。
まず、英語
「Beware of fire(ビウェア オブ ファイア)」とか書いてあったと思う。
同じように、中国語、ロシア語 アラビア語など続き、
そして、もっともインパクトがある「火の用心」が・・、

ぐじんぶるとだしぼじゃ



これって何語?
今思えば韓国語のような気がするが、当時はアンニョンハシムニカ? でさえ誰も知らないような時代だった。
「ぐじんぶるとだしぼじゃ」はとにかく衝撃的な音で、言語として認識できないほどであった。
こんな違和感のある音の言葉を話している民族がいるのかと思うと気が遠くなるほどだった。
「ぐじんぶるとだしぼじゃ」・・。
その後の人生で何度この言葉を思い出したことか・・・。
私にとっては 忘れられない言葉 のひとつだ。




誰しも、忘れられない言葉 というものを持っていると思う。
遠い昔に出会った言葉、数え切れないほどの言葉と出会っているはずなのに
その言葉だけは、記憶の片隅にまるで根を張ったように
じっとわたしの頭の中に棲みついている。
そして、ときどき忽然と顔をのぞかせるのだ。

あれは私が小学校2〜3年生の頃だったと思う。
当時私の家には車がなかった。
たまに遊びにくる叔父がドライブに連れて行ってくれるのが私にはとても楽しみな時間だった。
私は助手席に乗るのが大好きで、叔父にせがんでよく助手席に乗せてもらった。
チェンジレバーを握る叔父の大きくて無骨な手は今でも鮮明に記憶に残っている。
車窓から流れる景色を眺めると、歩道橋や市街地の幟に交通標語が掲げてあった。
その交通標語は赤い地に白い文字でこう書かれていた。

スピードダウンの徐行


これ、理解できますかね?
スピードダウン「の」徐行 とは?
当時私はこの言葉をまったく理解できずに、「よく分からないけど、大人になったら分かるようになるに違いないから、とりあえず覚えるだけ覚えておこう」と思いそのまま記憶にとどめた。
今大人になって考えてみても、「スピードダウンの徐行」は日本語として成立していない気がする。
「スピードダウンは徐行」ならばまだ理解できる。
『スピードダウンとは徐行という意味の英語ですよ』ということになろう。
しかし、スピードダウン「の」徐行 である。
昭和40年代後半である。この標語が町のいたるところに貼ってあった。
私の記憶違いの蓋然性も高い。なにしろ幼いころの記憶である。
とにもかくにも、「スピードダウンの徐行」その後の人生で数え切れないほどこの言葉を思い出している。
忘れられない言葉 である。



誰しも、忘れられない言葉 というものを持っていると思う。
遠い昔に出会った言葉、数え切れないほどの言葉と出会っているはずなのに
その言葉だけは、記憶の片隅にまるで根を張ったように
じっとわたしの頭の中に棲みついている。
そして、ときどき忽然と顔をのぞかせるのだ。


あれは中学1年生の頃だったと思う。
私の通う学校は制帽に詰襟の制服だった。
これを着ると小学生から一気に大人になったような、気恥ずかしくも嬉しいような気負った気分になったのをよく覚えている。
私の家は学校から少し距離があった。
途中、長い坂を登ったところに広い空き地があった。空き地のほぼ中央にトタン屋根の廃屋があった。
壁は朽ちて崩れそうだったが、半分開いた引き戸をすり抜けて中に入ることができた。
私は級友と「勇気試し」によくこの廃屋に入って遊んだ。
破れて倒れた障子やびしょびしょに濡れた畳を見ると気分が萎えたが、缶コーヒーの空き瓶やワンカップの空き缶やゴミに混じって、エロ本が何冊も捨ててあった。
当時の私にはエロ本はとてもインパクトがあった。
昔の空き地には何故かよく雨に濡れてガビガビになったエロ本が捨ててあった。

余談だが、最近TVで施設などを周って青少年に性教育の劇を見せているボランティア団体というのをやっていた。
キノコ型のぬいぐるみを被った男が「精子くんで〜〜〜〜す!」とか言って、
そんでいろいろあって、「受精しまーす!」とか言って相手役のぬいぐるみを被った女性と体当たりで「ドッカーン!」と体当たりして”合体”するわけだが、こういうのっていかがなものか?
雰囲気も何もあったもんじゃない。少なくとも私はこういうノリの性教育には萎える。何でもかんでも明るくすればいいというものではなかろう、と思う。
失礼ながら「性教育が必要なのはむしろあなたがたでは?」と思ってしまうほどだ。
乱暴な話ではあるが、私は性教育など受けなくても空き地に捨ててあったエロ本を見た瞬間に全てを悟った。
今でもそれで良かったと思っている。昔はみんなこうだった。
避妊や性病予防の知識は別途必要だとは思うが、それについては「精子くんで〜〜す!」なんていう照れ隠しみたいなおかしなノリじゃなく、真面目にきちんと保健の時間にでも教えるか、親などの養育権者がそれとなく教えればよいのだ。


で、話がものすご〜〜〜くそれたが、
その空き地の横の自動販売機に書いてあった文字、

ビーボより美味しいのはビーボだけ!


ビーボというのは現存していないようだが、当時一世を風靡していた缶コーヒーの会社である。
このキャッチ・コピーが書かれたビーボの自動販売機はいたるところで見かけた。
やはり日本語としてどうなのか?
中学生の私はおおいに疑問と違和感を感じた。
例えば、
富士山より高いのは富士山だけ とか、
新幹線より早いのは新幹線だけ、などのように意味を成さない比較に思える。

しかし、なにか有名な映画のキャッチ・コピーのパロディーであるとか、
もしくは底知れない文学的表現が背後に潜んでいるとか、
中学生坊主の私に理解できない背景があるのかもしれない。
この「おいしい」を「美味しい」と表記するのもミソである。
中学坊主の私はしばらく 「みあじいい」ってなに???と悩んだほどだ。

ここはとりあえずこのまま記憶して、大人になってから検証しよう、と思ったのだ。身の程を知っていたのだ!
で、大人になった今の私。
やはり大いに違和感を感じるキャッチ・コピーである。

とにもかくにも、
ビーボより美味しいのはビーボだけ!
今までの人生で何千回思い出しては違和感を感じ続けている言葉か知れない。
忘れられない言葉である。



あなたの 忘れられない言葉 もぜひおしえてください。
それではみなさん ごきげんよう
  
Posted by arakihitoshi at 01:38Comments(18)TrackBack(0)

2010年08月06日

モーツァルトを聴いて天才になる方法

ちっくと『竜馬伝』にはまっとるぜよ。そいはええんじゃが、ど〜いて新撰組の土方歳三と『篤姫』んときの大久保一蔵が同いがじゃ?
まっこて、違和感ば感じるぜよ。(あんお人はかっこええんじゃが)
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モーツァルトを聴かせて育てた果物が甘くなるという話し。

なるほど〜、それはあるかもしれませんね!
やっぱり、芸術っていうのは普遍的ですからね。人間が聴いて心地よいということは、動物や植物にだっていい影響があるはずです。
まさに天上の音楽ですね。モーツァルトが嫌いな人とは付き合いたくありません。
それにしても、いやはや、モーツァルトって言うのはまったくもって偉大だ!
ハラショ〜〜〜〜! アマデウス!!

と言いたい。
私も心からそう思いたい。そして感動を共有したい。
真っ直ぐな心で生きてゆきたい!。
そういうものに私はなりたい!。 アーメン。

しかし、どうでしょうか。
モーツァルト・イヤーでしたっけ?
生誕200年とか言って世の中騒然となっていた年がありました。
モーツァルトを聴くと頭がよくなる。という話が持て囃されました。
某放送協会の番組でもそんな特集が組まれていました。
モーツァルトを聴かせて育てたラットと、何も聴かせないで育てたラットを、迷路で競争させる実験とか、
モーツァルトを聴かせて計算問題を解く学生のグループと、聴かないで解くグループを競争させるとか、
そんな雰囲気だったと思います(うるおぼえ)。

もちろん番組の中の実験結果は言うまでもなくモーツァルト組の勝ちなのですが、
本当にモーツァルト聴いて頭がよくなるんだったら、プロ・オーケストラの楽員なんてみんな天才になってませんかね?
モーツァルトの交響曲とか協奏曲とか序曲とか、1年に何十回も弾きます。たぶんモーツァルトに1度も接しない週っていうのは皆無だと思います。
しかしながら、プロ・オケの楽員がみんな頭がよくなって天才になったという話は聞いたことがありません。少なくとも私は天才になっていません。

モーツァルトに限らずクラシック音楽を、収穫に良いという理由で農作物や家畜に聴かせている農家の話はよく聞きます。
幼児の脳に良いとか、胎教に良いとか、まあいろいろ話はあるわけですが、
でもね、例えばですよ、
1セット1000万円くらいするマッキントッシュのオーディオ・システムで、1枚30万円くらいするマスター・カットの幻の名盤と言われるロックのアナログ・レコードを最高の音響環境の部屋で聴かせて育てたトマトと、
一方で、安物のCDラジカセで、100ショップで買った中国製のニセモノの正体不明なクラシック音楽のCDを、容疑者のアジトみたいな今にも崩れそうなボロアパートで聴かせて育てたトマト。
どちらが甘いでしょうか?
これはもう味がどうとかいう以前に、容疑者のアパートで育てたトマトは枯れるか不良に育ってしまうのではないでしょうか。
少なくとも、クラシックがどうとかジャンルの問題ではない気がします。

私が大学生の頃に流行った遊びにこういうのがありました。
○まず、立ったまま前屈をする。
○次に、煙草の箱を口にくわえて前屈する。
○最後に、キャラメルの箱を口にくわえて前屈する。

これをTVで見てから、私は大学のサークルとか飲み会とかいろいろなところで試したのですが、ほとんどがTVの実験結果どおりになりました。
仮に、なにもくわえない前屈を70とすると、
煙草をくわえた前屈は50くらい、で、キャラメルは驚くことに80とか90くらいいきます。
なぜかそうなるか?
当時のTVの解説によると、理由は「自己暗示」だそうです。
煙草は体に悪い、キャラメルは体に良い、という自己暗示が前屈に影響しているというのです。
ぜひみなさんも試してみてください。

で、トマト。
要するにそういうことなんじゃないかと私は思っています。
モーツァルトを聴かせて育てるということは、その農家の人は「モーツァルトを聴かせると良く育つにちがいない」と思って育てているわけですよね? それこそが自己暗示です。
自然と水や肥料のやりかたなど育て方に差が出ても不思議ではありません。
最近たまたま聞いたラジオの「夏休み子供質問コーナー」みたいな番組で同じような話がありました。
それで突然この話を思い出したのです。

某放送協会の番組の実験に参加した学生たちの実験結果だって、モーツァルトを聴くと頭が良くなる!なんていうオカルト的な理由付けよりも、被験者が「計算が速くなるに違いない」という自己暗示にかかっていた結果、潜在的な能力が引き出された、と考える方がスムーズです。
ラットだって、ネズミに音楽を弁識する能力があると考えるより、実験を行った人の育て方に無意識のうちに差が出たと考える方が現実的です。

で、その番組はよせばいいのに、「なぜモーツァルトの音楽は人間の脳や植物などに好影響を与えるか?」という前提とは言えない前提に結論を出そうとしました。
『f分の1ゆらぎ』とかオカルトっぽい仮説をいろいろ立てては説得力を欠き、最後に苦し紛れに下した結論がちょっと笑えて、
『音符を数えてみたら、現代のポピュラー音楽に比べてモーツァルトの音楽には主要三和音の割合が多い』というおバカなものでした( ̄□ ̄;・・・・・。
「おいおい・・」という感じなのですが、一応簡単に解説しておくと、主要三和音とはハ長調だったらド・ミ・ソのことなんですけど、これはモーツァルトが特に多いわけではなくて、時代を遡るほど和声の構造が単純だから一般的に言って三和音の割合は多くなります。
現代音楽はご存知の通り、不協和音使いまくりでド・ミ・ソの世界ではないですよね?
モーツァルトは現代の音楽に比べれば三和音は多いかもしれませんが、例えばボッケリーニやヘンデルやサリエリなどの同時代の作曲家に比べれば、当時としては先進的な和声を使っている分、厳密に数えたら三和音の割合は少ないはずです(数えてないけど)。

で、本当に主要三和音が多い曲が脳に良いのだったら、例えばスーパー・マーケットの焼き芋売り場とか魚売り場で繰り返しかかっている音楽や、解散命令が出た某真理教のテーマソングなど、妙に耳につく単純でイラッとするメロディーはほとんど三和音で出来ていますから、そっちの方が脳によいことになってしまわないか心配です(笑)。
言わずもがなですが、音楽やましてモーツァルトの価値の全部でも一部でもを三和音の数などというもので計れるわけがありません。
それを、さも科学的に検証したかのごとく番組に仕立てて放送してしまってよいのでしょうか?
それ以来、その番組の情報は全て胡散臭く見えるようになってしまいました。


は〜〜、今回は長年言いたかったことが言えてすっきりしました。
あ、でも、音楽を聴かせて子供が頭良くなるとか、作物がよく育つという話し自体は否定しませんよ!(汗)
少なくとも、良い音楽を少しでも良い環境で聴いて、育てる側が良い精神状態で育てた植物や動物や胎児などに悪い影響は与えないはずです。
いや、良い影響を与えることは間違いないです。

なので、どんどん音楽をかけましょう! 
特に、札響のCDがまっこてええっていうもっぱらの評判ですぜ。
信じるものは救れるがじゃ! 

ほいたら、また合うじゃき!
  
Posted by arakihitoshi at 00:39Comments(9)TrackBack(0)
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