2015年06月24日

タヂリガマに行く

歩兵第22連隊は、愛媛県松山市で建軍された日本陸軍の歩兵連隊である。
日露戦争以降、『伊予の肉弾連隊』と畏怖された精鋭部隊であった。愛媛県人が主力をなし、全兵力は最盛期で約3000名。
沖縄戦では、首里城北方の守備を担当し、沖縄戦の大激戦となった嘉数の戦い、シュガーローフの戦いに増援部隊として参加した。
那覇市北部の守備陣地において、沖縄県民の盾となって奮戦し、20倍以上の戦力差があるアメリカ軍と対戦して、50日間以上もの間一歩も退かぬ善戦を見せた。
この嘉数高地の戦いにおいて、アメリカ軍は日本軍守備隊の健闘を「歩兵戦闘の極み」と賞した。嘉数の戦いによりアメリカ陸軍は1個師団の後退を余儀なくされている。
4月12日には日本軍最後の攻勢の主力として第62師団に編入され、日本軍一斉反撃の先頭に立ったが米軍の砲撃の前に攻勢は挫折した。
その後歩兵第22連隊は、喜屋武半島に撤退し、抗戦を続け、真壁タヂリガマの壕は 6月15日まで22連隊本部として使用されていた。
1945年(昭和20年)6月24日真栄里において、連隊長の吉田勝中佐は連隊旗を奉焼し、その後米軍によって洞窟陣地に爆薬が投げ込まれ全員が戦死した。翌日沖縄本島守備の日本軍玉砕が発表される。(以上、Wikipedia等より抜粋)



少し前になるが休日を利用して家族で沖縄に行った。
観光がメインだが、子供達を連れてひめゆりの塔や、できれば糸満市真壁のタヂリガマを探し当てたいと思った。

上の記事の連隊長吉田勝中佐は私の大叔父にあたる。母方の祖父(故人)の兄である。
こう書くと何か自慢めいた話しが始まるのかと思う方もいるかもしれないがそうではない。
私の祖父や母方の親戚たちは、戦争の話しはしたがらなかった。
現在49歳の私の子供時代、日本社会は今よりずっと戦争(敗戦)の記憶が生々しかった気がする。自分の縁者が戦争で名を上げた、などということを無邪気に語る雰囲気では到底なかった。
私もそのマインドを引き継いでいる。

その私の子供時代の話である。祖父は兄である吉田勝さんのことをとても尊敬していた。遺骨の入っていない墓の前で手を合わせ「この人は沖縄で戦死したおじいちゃんのお兄さんだ」とだけ子供だった私に教えてくれた。
祖父は戦争時代、満州に軍医として従軍した。前線の野戦病院で敵の銃弾で右肩を撃ちぬかれ(一緒に風呂に入った時に銃創の跡がたしかにあった)、治療のため帰国し、広島の陸軍病院に勤務しているところに原爆が落ちた。爆心地から500mの距離である。
よくは分からないが、自身もまた戦争には言い尽くせない思いがあったのだと思う。
祖父や祖父とともに広島にいた祖母、当時赤ん坊や幼児だった私の母と姉妹たちは奇跡的に原爆の難から助かったが、祖父や祖母が原爆が落ちた時のことを語ることはほとんどなかった。

その祖父が亡くなって20年以上になる。
恥ずかしい話だが吉田勝さんのことも忘れかけていた。
沖縄旅行の話しが持ち上がり、そういえば・・・、と思い出したのである。
祖父が亡くなった後、叔母などの話しで吉田勝さんがどこかの連隊の隊長として沖縄戦の相当末期まで戦っていたことは知っていた。
今回、その情報を頼りにネットで調べてみたところ、沖縄南部の真壁(まかべ)というところに連隊の慰霊碑があることが分かった。
ひめゆりの塔から僅か300〜400メートルくらいの距離である。

さて、実際にこのエリアに行ってみると沖縄戦の最期は、この逃げ場のない狭い地域に日本軍と住民が追い込まれていったことを実感する。
IMG_0422

北海道から考えると信じられないほどの細い道をカーナビと地図を頼りに歩兵第22連隊の慰霊碑を探すが何度も迷い、住民に訊いたりしてやっと見つけた。
慰霊碑の裏にはたしかに吉田勝の名前があった。ちょっと感動する。子供たちと合掌した。
すぐ近くに塹壕のような洞窟がある。これがこの地域特有の自然洞窟のガマというものらしい。『ひめゆりの塔が建っている沖縄陸軍病院第三外科壕跡も、そうしたガマのうちの一つである。(wikipedia)』ということである。
ガマの周辺には不発弾がたくさん並べてあった。意味するところは分からない。

しかし、連隊本部のあったタヂリガマはこのガマではない。ここから少し離れた場所にあるらしいのだ。
慰霊碑にさえ行けば何とか探せると踏んでいたのがだ、ここにはまったく手がかりらしきものはない。
諦めかけたのだが、実は私の従妹にいわゆる”歴女”がいて、「沖縄で戦死したおじいちゃんのお兄さんの足跡を訪ねて・・云々」と昔話していたのを思い出す。
ダメ元で携帯から電話したところ、なんと第22聯隊のこともすっかり調査済み、タヂリガマにも10年前に訪問済みというではないか!。

携帯で道順を聞きながらサトウキビ畑のあぜ道を行くと、従妹の案内通りこんもりと茂った神社の鎮守の森のような場所があった。この森の中にタヂリガマがあるというのだ。
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私有地ということなので、サトウキビ畑で農作業している方に許可を取って入らせていただいた。

少し興奮気味に草を分け入って進んでいくと、タヂリガマがあった!。
下の写真では分かりにくいが、入り口は大人が腰をかがめてやっと通れるくらいである。中を少し覗いたが奥は意外と広い。
しかし、連隊本部があったにしては信じられないほど狭い。長年放置されて土に埋まってはいるだろうが・・。
IMG_0435

70年前、大叔父たちは今私がいるこの洞窟で、アメリカ軍の砲弾が雨のように降る中、何十日も応戦し耐えたのだ。
敵の砲弾だけではない。飢えや暑さや虫やハブだっているだろうし、病気だって・・・。
なにより、その絶望的な状況の中、どうやって精神を保ったのか・・。現代に生きる私には想像すらできない。
しばし、ガマの前で黙祷する。



帰りにサトウキビ畑の老人と少し話した。沖縄訛りというのだろうか。聞き取りにくいがなんとも言えない味がある。
北海道から来たと告げると、収穫中のサトウキビの茎を家族の人数分ナタで切って渡してくれた。
ずっしりと重い茎は舐めてすぐに味が分かるわけではなかったが、割いて長いこと噛んでいるうちにほのかな甘みが口の中を満たした。


札幌に帰ってきてからしばらくして、母方の実家のあった余市に行く用事があった。
吉田勝さんの墓は祖父や祖母の墓から少し離れた所にある。
その墓に参るのは子供の頃以来である。長年の無沙汰を詫び、そして、祖父の墓には吉田勝さんの記憶を子供たちに伝えたことを報告した。

これを書いているのは6月24日だが、前日は沖縄戦の終戦の日であった。
安全保障法制の問題のせいか、例年より沖縄戦終戦日の報道が大きかった気がする。

今回、タヂリガマに行けて本当によかったと思う。     
  

Posted by arakihitoshi at 23:27Comments(6)
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