2005年10月11日

韓激流

楽しかった韓国公演も終わり、
代わりに終わりなき日常が戻ってきたわけであるが、
海外公演はオーケストラにとって、終わりなき日常業務をしのぐための、
一つの強烈なエポックとして存在し、
モチベーションを維持、高上させるカンフル剤だと、
そんな事をひとりブツブツ考えてるのであった。

さて、韓国の後は福岡と東京で公演しながら札幌に帰ってきた。
休みが一日あった後、士別と滝川のコンサートの練習があり、
昨日は滝川、一昨日は士別であった。
それにしても、いくら海外公演がオケのカンフル剤とはいえ、
定期から続いたあの演奏旅行の後の休みがたった一日とは、
札響も人使いが荒い(笑)。ま、忙しいのはありがたい事ではあるが。

帰国後の札響ではハングル物が大流行している。
連絡事項の掲示板には札響の公演を伝えるハングル語の新聞が掲示され、
韓国の飴やお菓子が練習場に常備され、
クドヴィッチのコーヒーコーナーのメニューに高麗人参茶が追加され、
公演先のお茶コーナーにはハングル語で名前が書かれた紙コップが並ぶ。
ハングル文字は一文字でも存在すると、
その場の雰囲気を圧倒的に”韓”の世界に引き込んでしまう
強烈な個性の文字であると改めて認識。

ハングルで名前の書かれた紙コップが並ぶ舞台裏↓
ハングル文字






前にもちらりと書いた事があったが、
東京にいた頃、2年間練馬区石神井のワンルームマンションに住んだことがあった。
20代後半の頃である。
引っ越してしばらくして、そのマンションの特異性に気が付いた。
なんと、日本人はわたし一人だったのだ。

1フロアーに4部屋づつの4階建マンションで、わたしは4階に住んでいた。
1階と2階は主に中国人エリア。
3階と4階は主に韓国人エリア。
彼らのほとんどは留学生でわたしと同世代だった。
夕方になると皆自炊するので、マンション全体が”アジア”っぽい臭いに包まれた。

バブル絶頂の当時、首都圏のマンションは住む人を選んだ。
「ペット可、ピアノ可、外国人可」というマンションはそうはなかったのだ。
それでそのマンションには韓国人と中国人とチェロ奏者一人が集まったのだろう。

隣の部屋のキム君とは同じ昭和40年生まれでずいぶん親しくなった。
向こうも日本人の友達が欲しかったのだと思う。
お互いの部屋を行き来するうちに他の韓国人たちとも親しくなった。

獨協大学にいた頃、韓国語を少しだけ勉強して、
ハングルの読み書きと挨拶くらいは覚えていた。
当時の日本では今と違ってハングル語は超カルト言語。
キム君たちはわたしがハングル文字をたどたどしくも読み書きするのを見て、
驚きを通り越して少し無気味がっていた。

仲間意識の強い韓国留学生たちは毎夜誰かの部屋に集い、
時々、晩メシにわたしを招待してくれたこともあった。
わたしが加わった時の公用語はもちろん日本語だったが、
韓国語も少し覚えた。
少なくとも”飲み会”で不自由しないスラングな語学力が当時はついていたと思う。
わたしの主要カラオケレパートリーである、韓国語版マジンガーZもその頃覚えた。

そんな生活も楽しい事ばかりではなく、
キム君の昔の彼女が韓国から男達を連れて責めてきて大騒ぎになったり、
留学生のひとりのハンさんと結婚して韓国に来なさいと皆に詰め寄られたり、
いろいろあったのだが、それはまた別の機会に。

札響に突如訪れた韓流で、「わが青春のハングル」が蘇り、
ちょっとセピアな気持ちになったのであった。

Posted by arakihitoshi at 23:13│Comments(0)││音楽 

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