ブログというのは弾みが付くと毎日でも書けそうな気がするが、
一旦滞ると面倒になるものだ。
これはブログに限らないかもしれない。
考えてみれば、腹筋もウォーキングも最近全くやらなくなってしまった・・。
せめてブログは続けよう。ここがふんばりどころなのだ。
こういう時はえてして面白い文章というのは浮かばないものだが、
とにかく書くのだ。
さて、BBSでも話題になったが、
三越の隣の丸善が4丁目界隈から撤退した。
丸善にはシャッターが降りて、移転を告げるはり紙がしてあった。
丸井にも用事があったので行った。
丸井の横には紀伊国屋がある・・。いや、あった。
行き慣れた思い出深いあの店舗は既に無く閑散としてた。
去年、狸小路の旭屋書店が撤退した跡を見た。
旭屋があったフロアはガランとしたまま放置され、
テナントで入っていた文房具屋だけがフロアの隅で不自然に営業していた。
紀伊国屋や旭屋の店舗は、風景画を書けるほど今でも頭の中に鮮明に蘇る。
パルコの7階にあった富貴堂も姿を消した。
十代の頃から通い慣れた本屋の撤退を寂しく思うのは私だけではないはず。
日劇や狸小路にあったほとんどの映画館も移転、もしくは撤退し、
本屋、映画館、電器店などは4丁目界隈からすっかり姿を消した。
パルス21がマルサから撤退し、レコード店の行方も気がかりだ。
そして何としたことか、かさはら楽器まで無くなってしまった。
このままでは4丁目界隈から文化の香りが消えうせるではないか。
パルコができる前はあの場所にはたしか二階建ての富貴堂があった。
その隣、今のマルサがある場所には帽子専門店があった。
70年代は日曜日には駅前通りや一条通りは歩行者天国となり、
子供心に世界の中心にいるような賑わいを感じたものだ。
少年時代に、駅前通りの歩行者天国でオーケストラが演奏するのに遭遇した
記憶がうっすらとある。
考えてみれば歩行者天国という言葉も今は死語だ。
先日、家の近くの国道沿いに大きな空き地が出現した。
何の跡地なのか、空き地になる前は何が建っていたのか、
毎日の様に通る道なのに、どうしても思い出せない。
家人の記憶などと照らしあわせて、
どうやら古るくて大きな廃業した銭湯があったようだ。
言われてみればそんな気がしなくもない。
こうして街は変わっていくのか。
4丁目にパルコができる前はあの場所に富貴堂があったと書いたが、
さらにその前には回明堂という眼科医院があった。
私の曽祖父にあたる人の医院だ。
札響の創設者の荒谷正雄先生が隣家に住んでいたそうだ。
屋根の上で熱心にヴァイオリンを練習する少年時代の荒谷先生の話しを
105才で亡くなった曽祖母から何度か聞いたことがある。
戦争の陰はあるものの、日常はのどかでいい時代だったのかもしれない。
さすがにその頃の4丁目界隈を知る人は今は誰も存在しない。
こうして街は変わっていくのだろう。