泣き言を言うわけではないが、
私のブログ更新のモチベーションというのは決して一定ではない。
ここのところモチベーションが低下気味である。
最近mixiに入会して(一応以前からしていたにはしていたが)、
mixiに日記を更新しはじめた。
しかし待てよ、mixiは全国数百人のお友達が同じ雛形で毎日日記を更新している。
量の爆発的な増加は間違いなく質の低下をもたらしている。
非常に性格の悪い言い方敢えてすると、
『不特定多数の人間が誰でも見れる可能性はあるものの、
実際は友達しか見ないクローズのブログで”今日あったカワイイこと”
みたいな内容の他愛のない作文が日々大量に垂れ流されている・・』、
と言えないこともない。
中には面白い日記もあるのだが、圧倒的な量の中に埋没して探すのはほぼ不可能だ。
ほんの数年前はホームページを開くことは、少しは勇気もいたし、インターネットという
メディアに自分の文章を公開するという意味である程度”公共性”も意識せざるをえなかった。
それによってネットは既存の「第4の権力」と言われるマスコミをも脅かす存在になりつつあった。
しかし、最近のブログに始まりmixiに至っては、お手軽な反面、
責任や公共性といった一般にウザイと思われがちな事からも逃れて、自由気ままだ。
マスコミを脅かすには到底及ばぬ”井戸端会議”の域を出ない存在になってしまった。
この現象はブログを無料で提供するポータルサイトや、その背後に存在する
既存のマスコミや大企業にしてやられた、と私には思えてならない。
友人と交わす交換日記のように”今日あったかわいい事”を書き連ねるメディアもあっていいだろう。
駅のホームの黒板のように、仲間と連絡を取りあうのに便利な場も必要だろう。
しかし、個人が発信するネットの価値がそれだけになっては困るのだ。
公共性の高い情報がそうした交換日記レベルのログに埋没してしまっても困るのだ。
”ネット資源”という言い方がつい数年前まであったが最近聞かない。
ネット資源とは公共性、汎用性のあるネット上の情報の事だが、
ネット資源の充実に貢献することこそ、ネットにログを残す意義と
私のような古い人間は考えるのだ。
いや、資源とは何も情報だけではなく、それこそmixiのコミュニティーによって
産み出される人と人の繋がりも資源なのかもしれない。
拙HPの居候部屋は札響の楽員を身近に感じてもらえる絶好の場所と思うし、
私のlivedoorのブログだってそうだと信じているわけではあるが・・・・。
インターネットは当初”世界に配信できる”がウリだった。
10年前にも個人の日記を淡々と書き連ねたサイトもあるにはあったが、
最近のネットの思わぬ進化にはどうも座り心地の悪さを感じるのだ。