前回からのつづきです。
私「下の階の荒木です」
ステレオ「・・はい」
ここで「ちょっとお待ちください」程度のセリフがあってからドアが開くのが普通だと思うのですが、その気配はありません。仕方なく私はインターフォンに向かって話し始めました。
私「えーとですね、ステレオの音を少し下げていただけないかお願いに来たんですが」
すると、ステレオおやじはいかにも面倒臭そうに溜め息混じりに答えます。
ステレオ「そんなに聞えるとは思えないんだけどな」
私「え? あ、いや。相当聞えるんですけど、」
そこまで言うとインターフォンがいきなりブツッと切れました。
私が驚いていると、やがてドアがゆっくり開きました。
半分くらい開いたドアからステレオおやじが顔を覗かせました。不愉快そうな口元は斜めに歪んでいます。
ステレオ「あまり神経質なこと言われてもね・・」
ステレオおやじはむっとした口調でいきなり言いました。
この人は割りと低い声でゆっくる喋るのが特徴です。これは私の主観ですが、見下されている印象を受け、あまり感じの良い人ではありません。
この”人を見下す”という印象はその後もずっと変わることはありませんでした。
わたし「・・・・いや、あのですね、神経質ということはないと思うんですけど」
ステレオ「神経質でしょ。そもそも、こないだ金槌がどうとか言われて、こっちは憮然としてるんだけどさ」
”憮然としている”と言われ、私はまったく予想外の展開に軽いパニックになりました。初っぱなからここまで敵意のある対応をされるとは思いませんでした。
次の言葉が思い浮かびません。
やっとの思いで頭を整理して言いました。
わたし「いや、夜遅くに金槌はどうかと思うんですけどね。前にも言いましたけど赤ん坊もいるので、少し気をつけていただきたいと思・・・・」
ステレオおやじは私の言葉を遮り続けます。
ステレオ「金槌じゃないんだけどさ、まあいいや。こっちは引越しやってるわけだから。夜に片づけやらないでいつやるんだよ?」
こうなると正直言って絶句する以外ありませんでした。私にはステレオおやじの言い分は一方的なものに聞えました。
苦情を言うつもりが逆に苦情を言ったことに対して苦情を言われました。丁重にお願いする形をとれば・・、というのはこの人には全く通じない甘い考えだったことがよく分かりました。
言葉を失っている私にステレオおやじは畳み掛けるように言ってきました。
ステレオ「あなたのところの楽器の音もこっちに聴けえてきてるんだよな」
今度はこちらの楽器に話しを振られました。
わたし「え? いや、そんなはずはないと思うんですけど、防音室の中で弾いてますし」
ステレオ「いや。聞えてますよ。まあ、あなたはそれが生業みたいだから、大目に見ようとは思ってるんだけど・・。お互い趣味なわけだから、尊重しあっていきませんか?」
こっちは趣味じゃないんだけど・・・。まあそれはいいとして。自分の騒音は棚に上げてこっちを大目にみてやるだと?、なんて勝手なこと言う人なんだ・・。と私も頭に少し血が登り始めました。
そもそも、歌詞や楽音の細部まではっきり聴き取れる程の大音量のステレオ音と、こちらの防音室から僅かに漏れた音を一緒にされてはたまりません。
こんなところで話しをまとめられたら困るので、気を取り直して反撃を試みようとしたところに階下から妻が登ってきました。
玄関で会話の一部始終を聞いていたはずです。
妻「はじめまして」
ステレオおやじは妻をちらりと見て軽く頷きました。
この人の目下の人間に対する挨拶は本当に失礼で、その後も腹の立つことが多かったです。「私はあなたの部下じゃありませんよ」と言ってやりたくなることもしばしばでした。
聞くところによると、ステレオおやじは大手の保険会社か何かに務めているそうなのですが、よほど横柄な態度で臨まないといけない部署にでも長年いたりしたのでしょうか・・。一体どういう人生を歩んで来たらこういう人格になるの? とその後もよく考えました。
わたし「いや、尊重しあうのはもちろんなんですけど、お宅のステレオの音はあまりにも大きいと思うんですけど」
やっとの思いで反撃に出た私の背後で妻が続けます。
妻「あの〜、ステレオの音がどのくらい聞えてるか、一度聞きにいらしてもらえませんか?」
ステレオ「いいですよ。行きますよ。まあ、今は食事中だから、今度にしてもらうけど」
わたし「はあ、うちも今は子供が寝てますし・・、では今度」
一時はどうやって収拾をつけようか途方に暮れた会話がやっと終わり、私と妻は階下の部屋に戻りました。
しばらくすると、またジャズが頭上から響き渡ってきました。
今日は女性ボーカルのバラード調の曲です。ベース音は相変わらず天井全体を震わせて響いてきます。
苦情を言われた直後くらい少し音量を控えればいいのに・・、と腹が立ちました。
今回は驚きとともにとても不愉快な思いをしましたが、これは今後起る出来事のほんの始まりに過ぎませんでした。
【つづく】