前回からのつづきです。
ステレオおやじは私を見つけると、愛車の高級外車を拭く手を止めて話しかけてきました。
「やあ、こんにちは。今度のポップスコンサートは出るんですか?」
一瞬何を言ってくるのかと身構えた私は拍子抜けしました。
「え? あ、はあ。出ますよ。札響の演奏会は全部出ますから」
この時のステレオおやじからは先日の様な憎々しげな表情は感じとれませんでした。いたって平和です。まあ、多少偉そうではありますが。
ステレオおやじは、「ああ、そう、出るんですか」と小声で言った後に続けます。
「キタラに聴きに行きますよ。」
私は反射的に”対お客さん向け”の善良な笑顔で、
「あ、そうですか。いらっしゃるんですか。ありがとうございます」とかなんとか応対して、ステレオおやじの斜め向かいに停めてある自分の車に乗り込みました。
この態度の変化はどう考えればよいのでしょうか。
こないだは言い過ぎた・・と、彼なりに反省して私との関係改善をはかろうとしているのでしょうか・・。
それならそれでとてもありがたいことです。
この頃の私は、札響の経営破綻と経営改革の時期でとても忙しく、また前年に父が亡くなってその後始末で私的にも忙殺されていました。
そのうえマンションの住人とトラブルを起していられない・・という状況でした。
ちなみにステレオおやじが言った”ポップスコンサート”というのはこの経営改革の一環で自主公演として始まった『札響ポップスコンサート』のことです。
その日の夕方マンション帰るとさらに意外な出来事が待っていました。
ドアチャイムがなり、出てみるとステレオおやじが立っていました。
「ああ、さっき東急ハンズでスピーカーの下に敷く吸音材を買ってきてね、置いてみたから、聴いてもらえますか」
ステレオおやじに言われるままに部屋に戻って、上階から聞える音に耳を澄ましました。(もっとも、耳を澄ますほど小さな音ではありませんが)
ひょっとして、実はそんなに悪い人じゃないのかもしれません。
こないだはたまたまタイミングが悪かっただけかも・・。
音楽好きであることには違いないんだし、根はけっこういい人なのかもしれません。
私も生活の場であるマンションにまで争いを抱え込みたくはないので、そうだとしたらとても助かります。そう思いたいです。
ステレオ音は確かに少し小さくなっていました。ベース音も多少弱まった気がします。しかし元々の音量がデカすぎることに変化はありません。
ステレオおやじが降りてきました。
「どうですか?」
「ええ、たしかに少し静かになった気がします。でも音量自体もう少し絞ってもらえたら・・」
私はイヤな感じにならないように、作り笑顔で言ってみました。
ステレオおやじも作り笑顔で答えてきます。が、さっきよりも多少口元が歪んでいます。
「まあ、しばらくこれで様子見てもらえませんか?。本当はもっと大きな音で聴きたいわけだから」
なんだかよく分からないまとめられ方をしてしまいました。
しかし、階下を少しは気にしているようですし、そのうち他の住人からも苦情が出るかもしれません。
やがて上階からいつものジャズの音が聞えてきました。この日の最初はアップテンポのトリオです。いつも不思議に思うのですが、ベースの"ド"と"ソ"の音だけがやたらと大きく聞えます。どの曲でもそうです。何故なんでしょう・・・。
そんなことを考えながら私は溜め息とともに天井を見上げました。たしかに少し音量は下がった気がします。
ステレオおやじの言うようにしばらく様子をみるしかなさそうです。
そして数週間が経ちました。
ステレオおやじとはマンションの玄関や、たまに近所のスーパーで顔を合わせます。妻や子供が一緒の時もありますし、私一人の時もあります。
「おはようございます」と挨拶すると、「おはよう!」とやたら偉そうに返してきます。
向こうは奥さんが一緒の時もありますが、奥さんはこちらが挨拶しても絶対に返事をしません。恐ろしく無愛想な人でした。
ステレオの音はやはりジワジワと音量を上げて、結局元に戻ってしまいました。
吸音材を入れてもその分音量を上げたのでは意味がありません・・。
そしてある日、仕事からもどるとステレオおやじが住む三階の廊下から怒鳴り合っている声が聞えました。
ステレオおやじが誰か女性と口論しているようです。
私の耳に飛び込んできたその口論の内容は・・・
【つづく】