今日は知事公館で札響グリーンコンサートがあった。
知事公館でのグリーンコンサートは久しぶりである。以前は毎年やっていたが、今回はたしか7〜8年ぶりである。野外演奏会30回記念(実際はもっともっと沢山やっているが、自主公演の野外コンサートが30回ってことなの・・・かな?)でホクレン主催で開催された。
開演時に2000人以上のお客さんがいて、どんどん増えていたので終演時にはざっと2500〜600人は来ていただいたように見えた。
尾高さんの指揮でフォスターやアンダーソンの名曲、アニメメドレー、そして「宇宙戦艦ヤマト」などが演奏された。
ついに尾高さんがヤマトを振ったか・・、という感慨もひとしおだが、それとは別に
宇宙戦艦ヤマトの曲を聞くと私は世代的に萌えに萌える。
♪銀河をこえて〜 イスカンダルに〜〜〜 は〜るば〜〜〜るのぞむ〜〜〜〜〜
宇ッ宙戦艦 ヤーーチャン マーーチャン
テッテッテテーーーテテテテッテテーー
上の歌詞のチャンの部分を弾く時は、おもわず顔がにやけてしまう・・(笑)
今日は実にすがすがしい晴天で、湿度も低く久々の北海道的な夏の日であった。
ただし風がとても強かった。
風で飛ばされそうになる譜面を押さえるのが大変だった。
『晴朗なれど浪高し・・・、じゃなくて風強し』
「ヤマト」を演奏するには雰囲気ピッタリのお日和りであった。
TVで松本零士がヤマトの曲について語っていたのを見たことがある。
ヤマト映画化にあたって、ヤマトを描いていたときによく聴いていたベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」の第2楽章(葬送行進曲)みたいな曲を書いてほしい、と宮川泰さんに頼んだそうだ。
出来上がった曲に非常に満足した、というエピソードだった。
そう言われてみると、女声のスキャットの入っているテーマ曲や白色彗星のテーマは「英雄」の第2楽章のオマージュとして書かれたとしても納得できる。それにしても素晴らしい出来栄えだと思う。
ヤマトのTV放映が始まったのが1974年なので、小学4年生の私はあまり記憶がない。
第1作目の映画が公開された1977年は私は小学6年生で映画館に行き一気にヤマトに夢中になった。日本中がヤマトブームであった。
鹿児島沖に沈んだ日本海軍の「大和」は”1億総特攻のさきがけ”として悲愴な最期を遂げたわけだが、地球防衛軍連合宇宙艦隊の「ヤマト」は”必ずここに帰ってくる”と凱旋を約束した出撃であった。
実際、ヤマト最大の見せ場はあの一撃必殺、無敵の最終兵器”波動砲”の発射シーンであろう。
実際の大和の歴史において、
もしレイテ沖会戦で僚艦武蔵が沈まなかったら・・・
そして大和の世界最大の46センチ主砲がドッカンドッカン火を噴いていたら・・・
そういうことは誰でもが想像すると思う。
宇宙戦艦ヤマトにおいて、
あの東郷平八郎似の沖田艦長が、「古ぁ代ぃ〜、波動砲だぁ!」と帽子のツバから片目だけ見せて叫び、
古代が、「波動砲発射10秒前ッ! 対ショック 対閃光防御ォッ!」
「10・9・8・7・・・・」
「波動砲ぉ 発射!!」
ドガガガガーーーーーーー
すると憎たらしいガミラスの奴らが驚きの表情とともに
「ぎえ〜〜〜〜」と叫び声も半ばに波動砲の閃光に飲まれて宇宙の闇に消えていくーー!
「そう!! これだよ!!これ!! この時を半世紀待っていたのだよ!!」
という爽快感である。
その翌年。
すっかりアニメ少年になった中学1年生の私は、ヤマトや森雪やメーテルのセル画をせっせと書いてはクラスの友人たちに1枚500円で売っていた。
当時はセル画を書く道具は東映の支社に行かないと売ってなくて描けるヤツもいなかったので、見よう見まねで描いた私のセル画でも飛ぶように売れた。
「さらば宇宙戦艦ヤマト」が公開されたのはその年である。
当然、私はヤマトに少年兵として志願して乗り組んだ。
凱旋を約束して旅だった前回の戦いと違い、今回は日本海軍の「大和」同様、特効作戦であった。
ご存じ、森雪の亡骸を抱いて一人ヤマトに残り、白色彗星に向かってゆく古代・・・、あのシーンに涙が止らなかったのであった。
私は島大介らと救命艇でヤマトを後にしたわけだが、実際のヤマトに乗り組み、白色彗星帝国との死闘で多くの将兵が負傷し死んでいくのを見た私にとって、その後のヤマトの続編は実に興を削ぐものがあった。
「あの時死んだのはナシね」がアリなら何でもアリじゃん・・、と思うのだ。
私のなかのヤマトは「さらば・・」で終わっているのである。
映画「宇宙戦艦ヤマト」と「さらば宇宙戦艦ヤマト」の2編は大人の鑑賞にも耐えうる名作だと思う。
実際の大和の歴史が背景にあることもそうだし、そしてここでも「名作に名曲あり」の言葉を思い出す。
そんなことを考えながら演奏した今日の野外コンサートであった。
<参考資料>
波動砲発射シーン詰め合わせ(You Tube)