前回からのつづきです。
さて、春先に引越しを決めてからも、なかなか条件に合う引越し先は見つかりませんでした。子供の学区のこともあり、どうしても近所で探すつもりでした。
夏も過ぎた頃に、近所の昔馴染みの不動産屋さんが一軒の賃貸物件を見つけて紹介してくれました。
駐車スペースも2台分確保できるし、レッスンする部屋もとれます。
広い家だったので、実家を建て直している間、実家の家具などを詰め込んでおけそうです。
当初、立替え中は母が住むための賃貸マンションを借りる予定だったのですが、その間この借家に同居すれば、ステレオおやじのために被った経済的損失はかなり圧縮できます。
さらに経費節減のために、引越は荷物を自家用車(ワゴン車)でコツコツと運び、自力で敢行することにしました。
引越し先の借家はマンションから車で2〜3分の場所なので充分可能な距離です。
引越し予定日を仕事が比較的暇な2ヶ月後に設定して、日常使わない物からダンボールに詰めて、毎晩少しづつ運びました。
まるで夜逃げのような光景でしたが、仕方ないです。これで引越費用を2〜30万円払わずにすみます。
そうしている間にも、上階からのステレオ音は相変わらず、ズ〜ンズ〜〜ンと響いてきていました。
イライラしますが、もう少しの辛抱です。
その頃、マンションの隣の敷地で工事が始まりました。
土地が坂になっているので、古い擁壁を作り替えるような工事だったと思うのですが、ある日、工事が長引いたらしく、夜になっても重機の音が止みません。
そして10時を過ぎた瞬間です。
上階のベランダが勢いよくガラガラと音を立てて開きました。
そしてステレオおやじが工事に向かって「うるさいぞー!」と大声で叫びました。
私も家族も上階のベランダで叫ぶステレオおやじの声にびっくりしました。
工事の音はたしかに聞えますが、毎日夜までやっているわけではないし、たまたまです。
上階のステレオの方がずっとずっと大きな音です。
それに、ベランダから工事に向かって大声で怒鳴るなど、なんという常軌を逸した品のない行為でしょうか。
自分の出す音は皆に苦情を言われようが、警察に注意されようが、全く省みようとはしません。しかし周囲が出す音は絶対に許せないのでしょう。
この人は”自分は特別だ”という意識が強すぎるのだと思います。
私は引越しが目前に迫っていたので、「思えば可哀想な人・・」と以前よりは余裕のある気持ちで、この孤独な老人を眺めることができました。
1ヶ月後、無事に引越しは終わりました。
マンションのお世話になった社長さん家族やご隠居夫婦にご挨拶に行きました。
親しく付き合っていたのでみなさん残念がってくれました。
社長さん夫婦に「やっぱり、一軒家なの?」と訊かれ「はい」と答えました。
社長さん夫婦は複雑な表情を浮かべました。「災難だったね・・」という言葉を一瞬表情から読み取った気がしましたが、分かりません。
当座の新居はマンションよりさらに山に近い場所の一軒家です。
夜は虫の声や遠くの幹線道路からの自動車の音は聞えますが、とても静かです。
外に出ると、近所から時折テレビの音が聞えて来たりしますが、こうした生活音はむしろ、周囲にも人の生活があることを意識させてくれて安心します。
近所にご挨拶に回りました。
名刺を渡して、「レッスンなどしますけど、ご迷惑がかからないように気をつけますので」と言い添えて周りました。
隣のご夫婦は札響の定期会員、もう一方の隣のご夫婦もよく札響の演奏会に来てくれるそうです。そして向かいはうちと同じ年ごろの子供がいる道新の記者の家族、という非常に恵まれた環境でしたが、みなさんレッスンに関しては快く「どうぞ、どうぞ」と言ってくれました。
2階の一室でおそるおそるチェロを弾いてみました。
ここで苦情が来たら一巻の終りです。
1週間ほどしても苦情は来ません。
レッスンも再開しました。
やはり苦情はきません。
久しぶりに、本当に久しぶりに、自宅で練習やレッスンに集中できる環境を取り戻しました。
休日は家の前で洗車をしました。
もう駐車場や敷地内でステレオおやじとハチ合わせになる心配もありません。
夕方は子供の手を引いて、近所の公園に散歩に行きました。
6時になってもステレオおやじの高級外車がボボボボ・・・とエンジン音を鳴らして帰ってくることもありません。
夕食が終わって7時のNHKニュースを見ます。
この時間は上階のステレオの音が一番大音量になる時間帯です。
でももうステレオの音は聞えません。
当たり前にくつろいで、気持ちをリラックスさせた状態で、TVを見たり子供たちと居間で遊ぶ食後の時間が数年ぶりに戻ってきました。
私は音が聞えてこない天井を見上げて、しみじみとステレオおやじのいない生活に感謝しました。
9月です。窓を開けると虫の声や風に揺れる木々のざわめきが聞えます。
「なんでもっと早くこうしなかったんだろう・・」
そんなことをぼーっと思いながら、自然の音に耳を傾けていました。
その後マンションは売りに出しました。
途中、内装を施したりしたので、その打合わせや点検のために、たまにマンションに出入りしていました。
部屋に入ると、まずは駐車場を眺めおろしてステレオおやじの車の所在を確認する癖は抜けません。
ガランとした部屋に、やはり上階からのステレオ音が響いています。
私が引越したので、ステレオおやじもさぞ羽を伸ばしているだろう、と思ったのですが、ステレオの音は以前ほど大きくない気がします。
ひょっとして、私を追い出すために、わざと下に響くようにステレオをかけていたのかもしれません。
そのくらいのことはやりかねない人ですが、私の考えすぎかもしれません。どちらにせよ、もうどうでもいいことでした。
ステレオおやじが今でもあのマンションに住んでいるのかは不明です。
ごくたまに近所で見かけることがあるので、この周辺に住んではいるのだと思います。
思い返しても、あの人が周囲と協調することは不可能と思います。きっとどこかで今も隣人とトラブルを起しているに違いありません。しかし、地域コミュニティーの中から、こういう問題のある人を排除するのも不可能です。
いくらステレオが騒音といっても、騒音自体を取り締まる実用的な法律は存在しておらず、騒音によって健康被害でも受ければ傷害罪と言えるのでしょうが、実際は難しいと思います。
私はしばらくジャズが聴けなくなりました。
それが一番深刻と言えば深刻な後遺症でした。
最近やっと楽しく聴けるようになりましたが、たまにステレオおやじの顔がちらつきます。この程度で済んだことを感謝するべきかもしれません。
長いこと「恐怖のステレオおやじ」の連載にお付き合いいただいてありがとうございました。
万が一、あなたが不幸にもステレオおやじの隣人になったら、その時は無駄な抵抗は一切止めて、一刻も早く引越しを考えることを心からお薦めします。
【おわり】
※この物語は私の体験をもとに綴ったフィクションであり、登場した人物、団体等は実在しません・・・・。(ということでよろしく)