先日TVで沢田研二の還暦ライブをやっていた。
最後の10分くらいしか見れなかったが、沢田研二が活躍した70年代の歌謡曲はやはり良い。
あの頃は私は小学生か中学生だったので、歌詞の意味も分からずに聴いていたが、現在43歳の耳で聞くと当時の歌謡曲がいかに味わい深かったかよく分かる。
例えば「時の過ぎ行くままに」である。
あなたはすっかり つかれてしまい
生きてることさえ いやだと泣いた
こわれたピアノで想い出の歌
片手でひいては ためいきついた
時の過ぎゆくままにこの身をまかせ
男と女がただいよいながら
堕ちてゆくのも しあわせだよと
二人つめたいからだ合わせる
・・・・どうですか? そこのご同輩!
いま目の前に疲れた異性がいるわけである。
疲れたと言っても、スポーツして疲れたのではないのであって、これは酸いも甘いも噛み分けた大人にとっては自明の理である。
そして、壊れたピアノを、しかも片手でポロポロとひいて溜め息をついたあとに、
な、な〜〜んと! 冷えた身体を合わせちゃうのである!
そして後先考えずに「堕ちてゆくのも幸せだ」と・・・・・
ああ、この刹那的で耽美的なイキフン!! (※イキフン=雰囲気@業界用語)
このイキフンは中学生のガキンチョ時代には到底分からなかったな〜。
まさに大人の世界である。
大人と言っても、『給食費払ってるのに、子供に「いただきます」って言わせるのはおかしい』とか言ってる大人ではなく、”おとな”であり、”オトナ”であり、”お・と・な!”な大人である。
去年、札響のポップスコンサートのゲストに岩崎宏美が来た。
いろいろ歌ってもらえて大満足だったが、「シンデレラハネムーン」が特に印象に残った。
いつでも二人は シンデレラ・ハネムーン
時計に追われる シンデレラ・ハネムーン
好みの煙草あと一本になり
あなたはやるせない目をして見てる
肩でもいいわ しっかり抱いてよ
何番かの歌詞に
嘘でもいいわ しっかり抱いてよ
というのもあった。
シンデレラ・ハネムーン ってなに? 少なくても、ディズニーランドにいるシンデレラではないだろう。
これもお子ちゃま時代には想像すらしなかったが、意味深な言葉である。
いつも会える時間が限られているわけだから、きっとフェアな関係ではないのであろう。
しかも、肩でもいい、嘘でもいいからしっかり抱いて! と・・・・
なんとまあ、色気のある話しであろうか。
これもまた、酸いも甘いも噛み分けた色香が漂う大人のメルヘンと言っていい話しだろう。
そして、切ない大人のイキフンがムンムンムラムラと漂っている。
言うまでもないが、これも給食費がどうとか言ってる人たちには一生分からない話しである。
この歌詞、両方とも作詞は阿久悠である。
やはり阿久悠の存在は大きかったんだと思う。
そして音楽家の端くれとして強く強く思うのが、旋律の持つ力が今の歌謡曲とくらべて桁違いに強いということだ。
全てとはいわないが、今流行の曲にはどうにも旋律のパワーが無い。
楽譜的に言うと最近の歌謡曲は、
ドドッドドーーードドドドーーーー
みたいな感じで、ほとんど音の高さが変わらないで曲が推移するものが多い。
せいぜい動いても2度とか3度とかである。
どんな歌がヘタな人でも歌える利点はあるかもしれないが。
思うにこの傾向は、ラップとDTM(コンピューターで作曲)が隆盛してからの傾向だと思う。
とても安易に曲が作られている気がする。
昔ヒットした歌謡曲はそういうことはない。
例えば「時の過ぎ行くままに」は、今手元に楽譜が無いので確かなことは言えないが、
一番低い音は「いきてる〜〜 ことさえ〜」の最初の部分の”シ”の音だろうか。
だとしたら、一番高いのは 「このみをーまかせーー」のあたりの上の”ミ”の音だと思う。
歌に関しては素人だが、自分の出せる音域を考えても通常の人の音域1オクターブ半くらいをフルに使って書いていると思う。
音域だけで楽曲の価値を計れるわけではないが、ドッドドドドドーみたいなモールス信号調の曲とは出来が全く違うことは分かる。
さらに、今時の歌詞は「いつまでも一緒だよ〜〜〜〜」みたいな表も裏もない薄っぺらくてバカっぽいものが目につく。
最近、妙に昔の歌謡曲に心引かれるので、ちょっと考えてみたらやはり理由はあるのだ。
単に懐かしがっているだけではないのだ!
次にカラオケに行った時には、おじさんと呼ばれようとも心置きなく70年代ソングを熱唱しようと思う。
やはり、オヤジやおふくろ・・。
「アンタの時代はよかった」
のである。
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