今日はkitaraの桜が満開でした。やっと暖かくなってきましたね。
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今日は正直な話をします。
正直者は救われます。「正直じいさんポチ連れて」と昔から言いますね。
"正直は三文の得"。"善人なおもて往生をとぐ、いわんや正直をや"。とか。
法律の世界でも、"嘘つきは正直者の第三者に対抗できない"という絶対原則があります。
で、現代曲の話です。
例えば、今日の定期でやった柴田南雄の「シンフォニア」。
どうですかね? みなさん分かりましたか?
柴田南雄は有名だしヘンな曲書くとも思えないんだけど、でもね、ベートーヴェンやブラームスにだって秀作とか駄作とか言われてる曲はあるわけで、有名な人が書いたから即ち傑作だ!とは言い切れないわけですよね。
先月の三善晃の「交響三章」はどうでしたか?
まあ、今月の柴田南雄よりは分かりやすいって言えば分かりやすい気もしますけどね。
どちらにせよ、こういう新しい曲やるときは、私のような勤勉なオーケストラ奏者は何とかしてCDなどの音源を入手します。
で、少なくとも練習の始まる1週間くらい前にはライブラリアンから楽譜を借りて持ち帰って家で予習します。
まずはCDを聴きながら楽譜を読むわけですが、ほとんどの場合(少なくとも上の2曲の場合)第一印象は、
「なんじゃ、こりゃ?」 です。
なんだか譜割りもよく分かんないし、旋律がどこにあるかも分からないし、
聴いていても何拍子か分からないし、
どきどき打楽器がグヮ〜〜〜ンとかいったりして、弦楽器がひょえ〜〜〜〜〜ッといったと思うと、木管楽器がピロロロ〜〜〜〜〜となって・・、金管楽器が最後のほうで派手にバフッ!バフーーー! とかなるわけです。
楽譜は大抵の場合、前に演奏したオーケストラの書き込みが入っていて、印刷した上に奏者の鉛筆書きで、「ここは三拍子」っていう意味の三角印とか、一旦止まるから注意しろ!みたいな意味のびっくりマークとか、長い休符の後で出るときなんかに分からなくならないように、直前で旋律をやっている楽器の動きを小さく休符のところに書いてあったりするわけです。
要するに、”苦労のあとが偲ばれる状態”になっているのです。
で、正直言って「この楽譜をさらうのか・・、はぁ〜」とため息をついて、ゲンナリした気持ちになるのです。
そう、今日のサブ・テーマは”正直”ですからね。
「不真面目だ!」とか言って怒らないでくださいね。
そんで、しぶしぶ楽譜を音に直していくわけです。
「えっと、ここは・・? ああ、8分の3.5拍子ってことね・・。ってことは、タンタンタタタ って振るわけね・・」とか考えながら読んでいくのです。
で、CDを聴いてテンポを確認して、
「あ、そっか、こっからanimatoだから少し早くなっていって、ここから♪=120になるわけね・・、ってことは、ここの16分音符地帯はけっこう早いな・・、これはさらわないと弾けね〜な・・。」とか思ったりするわけです。
で、その16分音符地帯が思いのほか難しかったりすると、
「なんでこんなややこしい曲持ってくるんだよ!」とか指揮者の顔を思い浮かべてうらめしく思うわけです。
「ちきしょー、こんな一生懸命練習してもこの曲なんかもう一生弾かないんだろうな・・・」とか思ったり、
「苦労してさらっても、お客もなんだかよく分からなくて、唖然とした顔するんだろうな〜〜」とか思って虚しくなったりするわけです。
でも仕方ないので、ブツブツ思いながらもメトロノームを使ってゆっくりのテンポから始めて最終的には早く弾けるように練習します。
で、一応弾けるレベルに持っていって初日の練習に臨みます。
まあ、こういうオケにとって初演の曲の場合は大多数の人は譜面を見てきてますから、曲は止まらずに通るんですが、最後まで弾き終えた後にオーケストラの頭上に、「なんじゃ?こりゃ?」の巨大な「?」マークが浮かぶわけです。
この「?」マークは、芸術の森で練習している場合は南区から定山渓にかけて。kitaraで練習している場合は中央区をほぼ覆うくらいの巨大さです。
定期の練習は3日間ありますから、その”よく分からない曲”と本番もあわせて5日間付き合うことになります。
私の場合、今回の柴田さんの曲の価値がなんとな〜く分かったのが3日目の練習頃でした。
当日のリハーサルでやっと「なるほどね〜、いい曲かも」という気持ちになりました。
芸術っていうのは要するに”必然性”だと思うので、「ここにあるのはこの音じゃないといけない!」っていう必然性の積み重ねが見えてこないと、曲の価値がぜんぜん分からないです。
ロマン派の時代の美しいメロディーに満ち溢れた曲と違って、現代曲は抽象的に書かれた曲が多いですから、その必然性が分かるまでにはかなりの時間を要します。(少なくとも私はそうです)
さて、こうした"価値はあれども難解な現代曲"とどう向き合うか。
これは難しいテーマですね〜〜。
雑誌なんかの演奏会評とかで、初演以来50年ぶりの再演みたいな超マイナー曲を取り上げて、
『鳶彬朗の代表作のひとつである”交響断章「涅槃菩薩十四章"金箔"」”は、土俗的なモチーフを反復させ形而上的に昇華させることが求められる難曲だが、高関の指揮にこの日の札響はよく応えた。特に第三章で見せた天馬天かける如き金管郡の慟哭にも似たコラールは白眉。あえて欲を言えば、間緩楽章での弦楽器にさらなる透明感を求めたいところ 』(イメージ)
みたいなのを目にすることがありますが、
正直言って、「え?? なんで一回聴いただけでそこまでわかるの?」と感心させられます。
有名な曲ならともかく、録音も実演もほとんど無いような現代曲を、一回の本番を聴いただけで評価できるのは神業的だと思います。私にはできません。
ま、それは冗談としても(笑)、やはり現代曲に関しては、リハーサルを公開するとか、例えばPodcastやネットを使って事前に音源や解説を配布するなどしたほうが、みんなが楽しめるし、現代曲をやる意味も得られるような気がします。メディアも充実してきた昨今、そういう時代の流れになればいいと思います。
というか、”現代曲を紹介する”という以上、本当はそこまでやらないと目的を達成できないと思います。
札響が最近やりはじめたプレ解説は、こういう曲の場合とても良いと思います。
ま、なんと言っても、せっかく苦労して練習して一生懸命弾いたのに、キタラを埋め尽くすお客さんの頭上に浮かぶ「?」マークを見るのが辛い、っていう話しなんですよね(笑)。
「・・・だから現代曲はやらない」っていうネガティブな方向じゃなく、「こうしたら現代曲はできる」っていうポジティブな方向で考えれるようになりたいもんです。(他力本願ですが)
どんなもんでしょ・・?
それではみなさんごきげんよう。